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「遠くに、行きたい」
隣で小さな少女が悲しそうに呻いた。
まだ陽は昇っておらず、表情はよく見えなかった。
が、ともすればシーツの擦れる音に掻き消されそうなくらい、か細くて弱々しい声様が彼女の胸の内を語っていた。
「遠く」
一言。
「他の、誰もいない場所へ」
また一言。
「二人で......」
言葉を紡ぐ度に、その小さな声影が、何かに怯えるように震える。
憐れだとか、可哀想だなんてちっとも思わなかった。
ただ、どこまでもどこまでも愛しく思った。
そうっと、まるで羽毛に触れるかのように優しく、おれは彼女を抱き寄せてみた。
それに呼応して、彼女も背中に手を回してくる。
柔らかく、生暖かい女体の感触が直接伝わってくる。
熱い吐息と冷たい涙の雫が、あまり肉付きのよくないおれの胸元をしっとりと濡らした。
「桜ぁ......」
産声にも似た、甘ったるい、女の声色だった。
ちらり、と視界に入った窓の外にある、春が過ぎ、もう完全に花びらを散らした桜の木が、夜の闇にぼんやりと浮かんでいた。
風が吹いたのか、幾つもの歪な支幹が化け物の手みたいに不吉に揺れている。
まるで俺を向こうの世界へ誘っているかのように見えた。
それからおれたちは陽が昇るまで、ぴったりとくっついたまま片時も離れることはなかった。
そのまま絡み合い溶け合って、一人の人間になるのではないかと思ってしまうくらいに。
今まで女という生き物と幾度となく関わりを持ってきた。
そして最後には、大切な人を見つけ、恋をし、愛を知った。
けれど、ここまで来て、ようやく気づいた。
気づいてしまったのだ。
恋は人を駄目にする。
愛は人を破滅に追い込む。
情なんてものは人の心を、精神を蝕む悪魔の呪いだ。
もう手遅れだった。
全ては地獄への片道切符なのである。
死のターミナルはいつまでも、愚蒙な愛を飲み込み続ける。
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