八百屋お七

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炎が町を呑みこんでいく。 「逃げて!早く逃げるのよ!」 母親の泣き声にも似た叫びに背中を押されながら、 少女のお七は地面を蹴り続けた。 天和2年ーーーこの年、江戸で大火事が起こった。 この火事により、お七とその両親は 家から離れた寺へ避難することとなった。 お七一家は何とか災を逃れ、寺の住職と面会した。 「さあさあ、離れに八兵衛殿ご一家の部屋を用意しましたよ。 まずはゆっくりとお休みください」 「世話になります」 住職と父・八兵衛が会話する様子をお七はぼうっと見届けていた。 火ーーーなんて綺麗なのかしら 以前よりお七は、調理に使われるかまどの火をぼんやりと眺めていることが多かった。 食事を作る際、火の番をするように言われたのがきっかけだったが、 お七が火に魅了されたのは別の出来事が起因している。 ある晩、いつものようにかまどの火の調節をしていた時のこと。 お七が気だるい表情で火の様子とその上の鍋の具合を交互に見ていると、 どこからともなく一匹のカゲロウが現れた。 カゲロウ…水辺が近いから、この季節にはよく見かける虫。 幼虫の頃は水の中に居て、大人になると地上で生きるようになると とと様が言ってたっけ… お七がぼんやりとカゲロウの動きを追っていると、 次の瞬間、カゲロウは思いもよらない行動を取った。 「あっ!」 お七が小さく声をあげた刹那、カゲロウはかまどの火の中に飛び込んでしまった。 「…どうして」 自ら火の中に飛び込んでしまったのだろう。 あんな場所に入ったら死んでしまうのに。 ーーーいや。 もしかしたら、私の目にはそう見えているだけで、 本当はあの火の中に極楽浄土への道が続いているのかもしれない。 それを知っているカゲロウが、あえてあの中へ飛び込んだのだとしたら。 そう考えだすとお七は止まらなかった。 「かか様!もっと火を強くしたいの!」 お七はすぐさま、隣の部屋で縫物をしていた母の元へ駆けて行った。 「なあに?」 母のお峰が振り返ると、かまどの火は充分に燃え盛っていた。 それどころか、鍋は沸騰して吹き零れを起こしている。 「ーーーまあっ!お七!」 お峰は慌ててかまどへ駆けていき、すぐさま鍋を取り外した。 そして目をキッと吊り上げると、お七にこう言った。 「いい?火は恐ろしいものなの。 もし火に触れてしまったら…大変なことになるのよ」
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