プロローグ 旅のはじまり

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「旅…ですか」 里の長はこういった話を何の前触れもなく話す。 ここへ呼び出される際の文にも、里に見事なササユリが咲いた、ぜひ観に来ないかという誘いであった。 長年里に仕えてきた芭蕉には、当然これがただの行楽の誘いでないことはわかっていた。 文を太陽に透かしたり、火にあぶってみたりもしたのだが、 隠された文字などは特に見当たらず、真意をはかり兼ねたために 仕方なくこうして伊賀まで足を運んできたのだ。 「江戸からここまでは相当かかるであろうと踏んでいたが、 やはりお主はまだまだ現役であるな。 私の予想よりも遥かに早い到着にほとほと感心させられた」 「お褒めの言葉は結構です。 用件を、どうぞ」 長の表面ばかりの言葉には踊らされず、芭蕉は切り出した。 「うむ…まあ、待て。 聞いたぞ。 お主、あの大火で庵を焼失したとな」 「ああーーー江戸大火」 芭蕉が言う江戸大火とは、天和2年、江戸で起きた大火事のことである。 この火事が原因で江戸に住む3500名余りが犠牲となったという。 「あの事件以来、私はますます、現世に愛想が尽き申した」 芭蕉はため息をついて言った。 「忍として時に汚い真似もしましたがね、 それは里の為、任務の為ゆえのこと。 私は至極まっとうに生きてきた時の方が長い。 それで、ようやく忍を引退して趣味に興じようかと庵を建てたら 案の定、それを焼失してしまったのです。 この世はなんと不条理なものかと感じましたよ」 「そうか。では尚のこと、心機一転江戸を離れた生活を送ってはどうか」 長は自分の言うことを予想していたのか、嬉しそうに提案してきた。 「何が何でも、私に任務を与えたいということなのですね」 「ふふ、お主には何でも見透かされてしまうな。 ーーーまあ、そういうことだ。 ひとつ頼まれてくれ」 長の言う依頼とは、ある藩の動向を追ってくれというものだった。 近頃その藩の中では、打倒幕府を志す輩が増えているのだという。 幕府はそれを嗅ぎつけ、親交の深い伊賀の忍に 藩の内部を探ってほしいという依頼をしてきたのだという。 「と、いうことでな、 お主にはその藩の武士達が居つく土地を巡り歩いてもらい、 情報を定期的に送ってほしいのだ」 「なるほど、話はわかり申した。 で、その藩というのは?」
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