八百屋お七

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松尾芭蕉が、出立の地、そして自身の庵を築いた江戸の町・深川。 現在の清澄白河・門前仲町・木場などが深川にあたる。 芭蕉の生きていた当時は葦のしげる湿地帯で、 商業人達が多く住んでいた日本橋とは違い 賑わいのある場所ではなかった。 しかし、そんな落ち着いた場所であるからこそ 芭蕉はこの深川に住居を構えることにしたのだった。 ところがここに築いた芭蕉庵は、天和2年の江戸大火で焼失してしまった。 「師匠、準備が整いました」 「そうか」 曾良が芭蕉の元へ駆けよると、 「まずは八幡様に、旅の安全を祈願していきましょう」 と提案をしてきた。 八幡様とは富岡八幡宮のことで、 江戸で最も大きな八幡様だと人気のある観光地であった。 二人は八幡様への参拝を済ませ、そこから歩いて少しした所にある池のほとりへ立ち寄った。 「ここは静かで心が落ち着きます」 「良い俳句が浮かびそうか?」 「そうですねえ…」 曾良は筆を取り出してみるも、なかなか良い言葉が浮かばず頭をひねった。 「美しい景色を見て、心地よい風を浴びたからと言って すぐに一句浮かんでくるものではないのですね…」 「そうだな。まあ、これも練習のうち。 浮かんだ言葉をひととおり並べてから組み合わせるというのも一つの手じゃ。 例えば…」 芭蕉はふと、池のほとりに佇む蛙の姿を見つけた。 「池、蛙、ときた。 これらを組み合わせて何か浮かばぬか」 「蛙…僕、苦手なんです」 「そ、そうか」 芭蕉は曾良のあっさりとした物言いに拍子抜けしてしまったが、 「師匠、ためしに蛙を題材にして詠んでみてください!」 と曾良はあっけらかんとねだってきた。 「ふむ…少し、時間をくれ」 芭蕉は池のほとりに咲く蓮華と、その上でじっと水面を見つめている蛙に目を見張った。 まるで池の中に飛び込むことを躊躇しているかのようにも見える蛙は、 よく見れば愛らしい丸い目玉を持っている。 「なあ、曾良よ。 こうして見ていると、蛙が水の中に飛び込むことを戸惑っているように見えてくるな」 芭蕉の投げかけに、曾良ははっとしたように目を見開いた。 「師匠、そういえば。 今この池を見ていて、僕は全く別のことが浮かんできましたよ」 「別のもの?」 「火、です」
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