1人が本棚に入れています
本棚に追加
(第3話より続き)
美雨が次に向かった先は喫茶店から車で三十分ほど行った先にある、郊外の介護付き老人ホームだった。カルティエの腕時計を見るとすでに四時を回っている。いつもの百貨店で買い物をしてから保育園まで翔大を迎えに行こうかとも考えたが、母親からメールで言い付かったことを空き時間に済ませておこうと考えた。
三階建ての小ぶりなマンションのような建物のエントランスで、インターホンを押して名前を名乗るとすぐさま自動ドアが開いた。広い玄関のすぐ横にある詰所から出てきた若い女性スタッフが、
「いらっしゃいませ、香月先生」
と、丁寧に頭を下げる。美雨は軽く片手を上げ、そのままバリアフリーになった玄関ホールへスリッパに履き替えて入っていく。
「早速だけど、記録を見せてくれる?」
「かしこまりました」
スタッフが直ちに詰所から分厚いファイルを持ってきて手渡した。ホール奥に設置された応接セットに美雨は腰を下ろし、ファイルをぱらぱらとめくる。ここに入所している高齢者の食事、排泄、睡眠などの生活状況と血圧、顔色、動作といった健康情報が担当者の手書きで記録されている。美雨は細かい記述には殆ど目を通さず、もっぱら各ページの特記事項にだけ視線を走らせていた。現在三十数名いる入居者に特段変わった様子もなく、兄に伝える必要のある案件はなさそうだった。ひと気のないホールに八十歳くらいの小柄なおじいさんが何かを探すように顔を振りながら、小股でせかせかと入ってきた。その後ろを追いかけてきた長身の若い男性スタッフが、
「今日は外出しませんよ、藤田さん。みんな体操をやってますので食堂に戻りましょう」
と、大きくはっきりした声で語り掛けている。認知症らしきそのおじいさんの名前を美雨は今まで知らなかった。彼に限らず、ここの入所者で名前と顔が一致する者は一人もいない。男性スタッフが美雨に気づいて丁寧に会釈し、そのまま藤田さんの手を取って食堂に誘導していった。美雨は詰所でファイルを手渡しながらさっきの女性スタッフに、
「安田マネージャーは来てる?」
と尋ねた。
「はい。ただ、今は体操指導の最中でして」
館内にはそれらしき音楽が流れていた。
「どうしても手が離せないわけではないわね?」
間髪を入れずに美雨は尋ねた。
「あと数分で終わりますので、体操の後でもよろしいでしょうか?」
最初のコメントを投稿しよう!