第3章  美雨(れいん) ~完全犯罪へ~

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「あなたが体操を代わったらすぐに来れるわよね?」  あくまで威圧的な美雨に対して困り果てたスタッフが、わかりました、と急いで安田を呼びにいく。程なくやって来た安田は歩きながら会釈を繰り返していた。 「いらっしゃいませ、香月先生」 「あら、久しぶり。ここは何か変わったことはなくて?」   赤ら顔で汗かきの安田はいつものようにハンカチで汗を拭いながら人の好さそうな笑顔を向け、最近催した誕生日会の話や新しい入所者の様子をかいつまんで説明する。美雨は質問しておきながら、頭の中ではさっき買った株の今後の推移について予想していた。話の切れ目で適当に相槌を入れながら、横目で腕時計を確認する。ここに来て一時間近く経っているのでそろそろ潮時かと思い、適当に話を切り上げさせて美雨は帰ることを告げた。詰所に控えていた二名のスタッフと安田から深々と頭を下げて見送られながら施設を後にした。  フォルクスワーゲンに乗り込んでキーを差し込みながら、これで今日の仕事は終わり、よく働いたわ、と美雨は小声で呟く。浅尾に会ったし、株の売り買いをしたし、老人ホームにも顔を出した。車を発進させて来た道をそのまま折り返しているうちに、さっき施設内で読んだ記録や安田から聞いた話の内容などは、車の排気ガスと一緒に道端にことごとく霧散させていった。元より美雨はあそこのことなど何ひとつ把握していなかった。父親が資金を出し、母親が金庫番を務め、医師である兄がホームの施設長も兼ねていて、美雨も一応『健康・生活アドバイザー』という肩書を得ているものの、兄は父の後を引き継いだ病院の経営に多くの時間を割いており、実質的には安田が施設を回している状態なので、美雨が何も知らなくとも特に支障は生じなかった。スタッフの名前だって安田ともう一人の幹部以外は覚えておらず、呼ぶ必要のある時はネームプレートでまず確認していた。  美雨は、例えば子ども時代、学校のクラスメートの名前全てをいつも把握はしていなかった。名前を知らずに学年末を迎える相手が毎年数名はいたので、覚えていないこと自体に不自然さや抵抗はさほど感じられず、いま現在もホームの入所者はおろかスタッフの氏名すら把握していないことも、彼女にとっては至極当然の成り行きだったのだ。施設内で大きな異変はないか、問題を起こしているスタッフや入所者はいないか、組合を結成しようとしている職員は
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