第1章 12月5日(金) 午後11時52分

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 一瞬後、霧は何事もなかったかのように、再び視界を覆い尽くし、ゆらゆらと闇と溶け合っていた。しかし、ほんの一瞬ではあっても、霧の向こうに見えたそれは少年の脳裏に焼きつき、消えなかった。  ――夜鬼ハ、此方ヲ凝視メテイル。  あいつらだ――少年は身震いもできずに立ち尽くした。霧が濡らした前髪から、ぽたり、としずくが一つ垂れる。あいつらが、美咲を殺したんだ。殺して、そしてその肉を喰ったに違いない――。  少年が霧の向こうに見たものは、緑色に光る二つの瞳だった。人間を殺し、その肉を喰う者――夜鬼の、少年を見つめる光る双眸。  ――草色ニ眼ヲ光ラセテ。  そのとき、立ち尽くす少年の耳に、救急車のけたたましいサイレンの音が飛び込んできた。同時に、救急隊員が狭い路地に駆け込んでくる。その先頭の一人が、彼らに背を向けて立つ少年の姿にはっとしたように立ち止まり、つぶやいた。 「あれが、例の島の…」  しかし、その先がつぶやかれる前に、他の者がしっ、と彼をたしなめる。けれど、彼らの言葉など、少年の耳には入っていなかった。  少年は、霧の向こうから未だ彼を見つめる夜鬼の視線をはっきりと感じ取っていた。その視線に、彼は金縛りにあったように動けないでいる。霧が揺らめく。闇がその手を彼に伸ばす。大丈夫ですか――駆け寄る救急隊員の気配を背中に感じながら、少年はふらりと気を失った。  おい、倒れたぞ――驚いた隊員が彼を助け起こしたときには、彼のその瞳は死者のようにしっかりと閉じられていて、永遠に目を覚ますことがないようだった。折りもあろうに、いまこのときまで霧として形を保っていた細かな水滴が、堪えきれなくなったように互いに結びつき、地面に落ちる雨となった。そしてそれはあたかも彼の涙であるかのように、少年の青ざめた頬を濡らしていく。  少年の意識が失われてなお、まぶたの裏の闇の中、未だあの二つの光は彼を見つめたままであった。  ――闇ヨリ、夜鬼ハ現レル。  くちびるを濡らす血も気にとめずに滝本美咲の死体を貪る、瞳光る夜鬼が。
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