第2章 12月5日(金) 午前6時51分

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 しかし、転機は訪れた。  嘉永六年、ペリー来航。鎖国を続けていた当時の政権、徳川幕府は開国を迫られ、同時に日本の領地の確実な制圧が急務となった。幕府の艦隊は大砲を積み、鬼の島、そう呼ばれた孤島へ向かった。  真実、鬼が棲んでいようとも、大砲に敵うわけもない。島はあっさりと降伏し、調査団の上陸を許すことになる。そうして上陸した人々は島の様子を一目見て、唖然とした。  記録にはこうある。  島にいたのは、確かに人間の形をした――けれど、決して人間ではないものだった。彼らは海で獲った魚を餌とし、人間を家畜のように「飼っていた」。そして、その人間を鶏のように潰し、肉を余すことなく喰うと、あとに残る骨や髪で銛を作ったり、飾りを編んだりしていた――と。  それだけ人々に衝撃を与えたことの証だろう、その様を描いた研究書が、当時は山のように存在したらしい。それはしかし、後の大戦と、八季への差別問題から大半が失われてしまい、現在に残されている書は少ない。  けれど、その少ないながらも保存されている書――文久年間にまとめられた夜鬼絵巻からは、当時の様子が伝わってくる。  薄墨で塗り込められた夜の風景。その闇の中、夜鬼が人間の死体に喰いついている。その双眸は明るい緑色に輝き、その口の端からははっとするほど赤い血が地面に滴り落ちている。そして、その絵の隅には小さくこんな説明が記されている。  品川湊ヨリ南南東三十六里ノ海上、鬼棲ム孤島アリ。舟寄ル浜辺無ク、又ノ名ヲ不帰島ト云。闇ヨリ草色ニ光ル眼、此方ヲ凝視ス。人非ズ者、人ノ肉ヲ喰ウ。即チ夜鬼トス―――と。  夜鬼――その呼び名は、島が制圧された後も長らく続いた。時代が移り、明治政府が平民苗字許可令を出した際もそれは変わらず、数百人にまで減少していた夜鬼の一族はそのまま「夜鬼」を苗字として名乗ることを強要された。  島へ人間の上陸を許してから、彼らは人間を喰うことを禁じられ、その風習は廃れていった。にも関わらず、夜鬼は夜鬼と呼ばれ続けた。本土と島との行き来ができるようになってからは、仕事を求め、大勢の夜鬼たちが東京に渡った。  しかし、夜鬼たちが「人間」に歓迎されることはなかった。東ノ沖島出身――出自は隠しおおせたとしても、彼らの最大の特徴である薄緑色の瞳は変えようもなかったからだ。
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