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第1章 12月5日(金) 午後11時52分
品川湊ヨリ南南東三十六里ノ海上、鬼棲ム孤島アリ
舟寄ル浜辺無ク、又ノ名ヲ不帰島ト云フ
闇ヨリ草色ニ光ル眼、此方ヲ凝視ス
人非ズ者、人ノ肉ヲ喰フ
即チ、夜鬼トス ―――典・夜鬼絵巻(文久年間)
細く暗い路地から、ネオンの明るい大通りへ――繋がらない携帯を片手に握りしめ、少年は走っていた。助けを呼ぶことのできるその場所まで、息が止まり、心臓の音も聞こえなくなった彼女の名を何度も繰り返し胸の中で叫びながら。
東京とは思えないほどの濃霧が立ちこめた夜だった。今日と明日の日を分ける境界線の上、闇と霧の交じる路地は暗い。大通りの卑猥なネオンは、黄色、紫、青と色を変えていく。少年が大通りに走り出たそのとき、ネオンは真っ赤に街を染めていた。
路地から飛び出してきた少年に、街と同じく頭からつま先まで真っ赤に染まった客引きが何気なく目を向ける。そして、次の瞬間ぎょっとして息をのんだ。真っ赤だったネオンの光が、きまぐれに白い光へと変わり、血だらけの彼の姿を浮き立たせたのだ。
しかし、少年に周囲の視線を気にする余裕はなかった。ここなら電波が届くはずだ――血だらけの手で、119、と番号を押す。永遠にも思えるような長い沈黙のあと、ようやくけだるそうな男の声が耳に聞こえた。
「救急です。どうされました?」
「血が、彼女が倒れていて、息をしていなくて、とにかく救急車を――」
少年の尋常ではない様子を嗅ぎ取ったのだろう、途端に相手の声が緊張した。
「そちら、お名前は?」
「名前? 彼女の名前は――」
真っ直ぐで、勝ち気で、笑顔が可愛らしい彼女。少年より一つ年上の、父親もいなくて、高校へも行けずに働いていて、けれどそんな不幸な境遇なんて少しも感じさせないような明るい彼女。
「お名前は?」
男の声が強くなる。
「ああ、えっと…」
質問とはまったく関係の無い言葉が頭の中を埋め尽くしている。それを必死にかき分けるようにして、彼は答えた。
「美咲(みさき)です。美咲。滝本美咲」
今日、18才の誕生日を迎えたばかりの美咲。少年からのプレゼントに目を輝かせた美咲。今夜いつもの場所で待ってる――そう言った美咲。それなのに――
「そうではなく、あなたのお名前は?」
男の声に再び現実に引き戻され、少年は聞き返す。
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