第2話 狐の嫁入り

7/36
前へ
/300ページ
次へ
四時過ぎ。 居酒屋『うっちゃり』 バイトの若者がガラス戸を拭き終えた雑巾でテーブルの上を拭き始めた。 「こらっ。雑巾でテーブル拭く奴があるかっ。そこに布巾があんだろっ」 元力士の大将が威圧的に怒鳴る。 若者が大将を睨む。 「……」 だが、大将の眼圧に迫力負けした若者は雑巾をパシッと床に叩き付け、 「あ~。もう、っせぇな。チッ。誰が、こんなウゼェ店っ」 捨て台詞を残して外へ出ていった。 「なによぉ。アレ…」 ママが呆れ果てたように大きく吐息する。 「あ~。カメちゃんが、ず~っとバイトしてくれてたらね~」 ママはグタッとカウンターに顔を伏した。 「仕様がねぇだろ。アイツは、もう看護学校の受験勉強があんだから」 大将も残念そうに言って、床の雑巾を不快そうに拾った。 「あ~んなのと比べるとやっぱりカメちゃん、育ちの良い坊ちゃんよねぇ」 ママが言うと、 「……」 大将はバケツで雑巾を洗いながら『まったくだ』と言うように強くうなずく。 「……!」 ガバッとママが顔を上げ、エプロンのポケットからケータイを取って掛け出した。 「もしもし~、カメちゃん~?」 ママの電話から十数分後。 「こんばんは~…」 準備中の居酒屋にカメオが入ってきた。 「カメちゃ~ん。逢いたかったのよぉっ」 ムギュ。 カメオの姿を見るなり、ママは生き別れの子供と十数年ぶりに対面したかのような勢いで抱きついた。 『奥様変身コーナー!ヘアメイク担当は表参道のヘアサロン・マロンの栗本恭平さんです~』 テレビの司会者の声。 画面に美男子の恭平が映る。 「やっぱりカメちゃんと一緒に賄い飯を食べながら、この番組を観るのが至福のひとときなのよぉ」 ママは満面の笑みで、どんぶり飯を頬張る。 「なんか懐かしいすね~」 カメオがバイトしていた頃のようにママと大将、カメオの三人でテーブルを囲む。 「…いいのか?今日、お兄さん夫婦が長崎から帰ってきたんだろ?」 大将がカメオの好物をテーブルに並べながら訊ねた。 「あ~。いいっす。…ん~。やっぱ、美味し~♪」 ママ自慢の鶏団子と春雨の煮物を口に頬張ってカメオはニコニコ顔になる。 「……」 大将もママもカメオの笑顔につられてニッコリとした。 ついさっき勝手に辞めたバイトの若者に数日間ずっと不快な思いをさせられてきたのでカメオの可愛いさがひときわ身に染みる大将とママなのだ。
/300ページ

最初のコメントを投稿しよう!

6人が本棚に入れています
本棚に追加