金魚

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 振り向くと、老域に差しかかろうという年齢の男性が、ホームに膝をつき、吐いているのが見えた。  夜通し遊んで今から帰る酔っ払いか、あるいは暑さで具合が悪くなったのかは知らないが、ホームの真ん中で咳込みながら嘔吐している。  それを避けようと、周囲の人が一斉に白線側へと動く。その勢いと上から降りて来る人の流れがぶつかり、ドミノ倒してで人が倒れた。  抗えない勢いで他人の体がぶつかってくる。けれど最初から白線の側にいた俺には、これ以上ぶつかる相手がいない。  何もない空間に体が押し出される。それと同時にそう遠くない位置で電車が走り込む際の音が響いた。  体勢を立て直すなんてできない。確実に落ちる。そこに電車が走って来るのが判る。  逃げられない。助からない。  叫ぶこともできない私の脳裏を、過去の記憶が一気に流れた。  死ぬ寸前に見るという記憶の走馬燈。その中の、赤い魚影がふいに大きく膨れ上がった。  ついさっきまであんなに暑かったのに、ひんやりとした空気が体を包んでいた。  何かが背中の後ろをゆらりと行きすぎる。その動きに弾かれて、転落しかけていた私の体はホームへと戻された。  その場へ膝から崩れた私の背後に電車が猛烈な勢いで滑り込んでくる。  一秒でも遅かったら、私は今頃、人の形を留めてはいなかっただろう。  まさに間一髪という奴だ。けれど不思議と何一つ取り乱すことなく、私は、今、電車が走ってきた地下通路の彼方を見つめていた。  自分で飼ったことはないけれど、人生で何度も目にしたことのある赤い魚影。本物より遥かに大きなその姿が、通路の彼方の暗闇に消えていく。  もうあれから何十年も経った。さすがに、祖父母の家にいたあの小さな命はもうこの世にはいないだろう。  それでも、私が猫から助けたことを覚えていてくれたのか。そして今、私を助けてくれたのか。  心の中で問うても答えは返らない。ただ、そうだと告げるように、どこからかあの日縁側で聞いたのと同じ、涼しげな風鈴の音が聞こえた。 金魚…完
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