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「逃げて!」
その油断を突こうと、蜘蛛の脚が動き出した。前脚と後脚で地面を確かめるように、しかし素早く、その脚は僕たちをめがけてやって来る。その脚さばきに、僕はどうすることもできない。僕の意識はひたすらに、瞳の深奥を知ろうとしていたのだから。
蜘蛛の接近に気づいた時には、もう遅かった。
蜘蛛の口が目前にまで迫る。唾液で固まった髭の隙間から黄色く生えそろった歯が見え、そこから酸や土、血が入り混じった臭いが噴出される。両端にあった顎が横に開いたかと思うと、その大きな口も縦に開かれた。
あ、喰われる。
脳がそう理解した時には、五感の全てが現実を否定したようだった。
ぼやける視界、くぐもった声、ふらつく身体。一秒にも満たない、ゆっくりとした時間が、僕の周囲を包んだ。
大蜘蛛の歯が、徐々に僕の喉笛に近づいていく、のどを噛みちぎり、頭蓋骨を噛み潰すために、徐々に、徐々に――。
その時だ。僕の首と、蜘蛛の顎が触れる直前、がくん、と僕の体が突き飛ばされた。後頭部に来る衝撃を意識しながら、目の前で蜘蛛の口が閉じるのが見える。その斜め下で、桶子の白い帯がはためいていた。
「ぐっ」
そして、僕の体は地面に倒れ、頭をしたたかに打った。痛覚によって、鈍くなっていた感覚が戻っていく。視界だけが多少揺れているようだったがそれどころではないと、僕は急いで顔を上げた。
桶子が、僕を突き飛ばしたのだ。
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