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「ったたた」
でも、これでまだ時間稼ぎできそうだ。
僕は包丁と懐中電灯を両手に持つと、蜘蛛に向かって吠えるように言う。
「かかって来い蜘蛛野郎、こっちだ!」
そして、空地から遠ざかるために道路へと蜘蛛を誘導しようとする。一気に走り出すと桶子の存在を勘づかれる恐れがあったので、特に蜘蛛の脚の動きに注意しつつ後ずさった。
蜘蛛は僕を目で追うと、こちらへ振り返る。
「ヒト…、ひと…、ひト」
そんなことをぶつぶつ言いながら、脚を突きだし、引きずるように移動してくる。良い手ごたえだ。濃厚で純粋な殺意を散らかして、蜘蛛は僕をゆっくりと追いかけてきた。初撃では不気味なくらい滑らかな接近を見せられたが、今度は正反対の遅さで重い体を運んでいる。
僕は蜘蛛が重い"脚"取りで追ってくるのを確認しつつ、空地を出るように誘導する。蜘蛛の視界には、どうやら僕しか映っていない。脚をがたがた震わせ、それでも進むというのは、『人が憎い』『人を喰う』といった、人間への執念が成せることなのだろうか。どうであれ、その背後で桶子が人質を救助しているのが見えていないのであれば、僕には蜘蛛の意思などどうでも良かった。
今の僕にはほんの少しだけ、蜘蛛の動向を観察する心の余裕があったと思う。桶子と役割を分割し、蜘蛛の凍える視線から一度でも克服できたことで、蜘蛛が徐々に、その様相を変化させていることに気づいたのだ。
僕は暗がりの中で蜘蛛が憤り、猛る執念で追いかけてくる裏腹で、至るところから血を流し、疲弊してきているのが分かった。目は真っ赤に血走り、怒りに震える口元には血が滲んでおり、脚と胴体の関節部分からも、その体液を滴らせている。見れば見るほど、怪物が弱ってきているのが分かるのだ。こちらからは何らダメージを与えている訳ではないのに、これはどうゆうことなのだろう。蜘蛛と一定の間隔を空けながら移動し続けるのは、終わりのない恐怖にさらされ続けているのと同じである。そんな緊張感に苛まれる中で、僕はどうやって蜘蛛から逃げ切れるかを考え、奴をにらみつける。
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