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空地を出ると、周囲は再び深い霧に包まれる。蜘蛛は自身の巣である大樹から離れてきているのに、違和感を抱いた様子もない。僕という獲物が逃げていくのを捕らえることしか、奴の頭にはないのか。夜に染まった霧は、住宅街だけでなく、蜘蛛の姿さえ眩ませようとしている。蜘蛛との距離は、突然の体当たりを危惧してぎりぎりの長さを保っていたのだが、この霧では例え蜘蛛が桶子の不在に気づいて引き返しても分からないだろう。仕方なく、懐中電灯を使って蜘蛛を照らすことにした。
夜目にはきつい明かりが蜘蛛の顔に当たり、夜よりも深い陰影を後ろに作った。毛むくじゃらの脚や鋭い鋏角、白く反射した目が不気味に、そして威圧的に、強い存在感を放っている。だが、そこにも赤い血がところどころから滴っていて、むしろ痛々しさすら感じられるほどだった。
「ニゲ、る。ひと……にゲ
コ、こ、ころす……ヒと…こロ」
赤黒く固まった髭を動かして、声がこもる。息も絶え絶えに、蜘蛛はなお、その執着を口にしているのだ。この妖怪にとって、人はただの捕食対象ではない。桶子は人の恐怖を感じ取ることでお腹を満たすことができる。その点は、どの妖怪も同じではないだろうか。この蜘蛛は、己の胃を膨らませるだけで人を喰っているのではなく、人そのものを憎んでいるから、人を喰うことで怨念を晴らそうとしているのではないか。
カスミの話では、彼女は必然にも蜘蛛が父を襲っている現場を目撃し、その目に魅入られてしまったという。怪しく笑んだようだったという、その視線は怨念というよりは、嗜虐さを思わせる。カスミの見た蜘蛛と、僕を追っている蜘蛛は同一のものなのか?
この町に蜘蛛が、もう一匹いる可能性……。
もしも、もう一匹蜘蛛がいたなら流石に逃げられない。向こう側から別の蜘蛛がやって来て、挟み撃ちなんてことになれば、僕は餌になる前に死ぬまで玩具にされてしまうだろう。
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