第1章

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 この犬、人を怖がらせることに長けていた。でも、可哀想な犬に思える。これでは、他の犬とのコミュニケーションは難しい。あまりに思考が、人間臭い。  俺を転ばした犬が、やってきた男の足元で、暗い目をして笑っていた。  昴は頭を打ったのか、目を閉じている。頭から血が流れているが、手で押さえてもいないということは、意識が無い可能性が高い。早く確認したいが、昴と俺との間に、犬と男がいるのだ。  男は、体格のいい若い男で、目深に帽子を被っていて、顔はよく見えない。  黒いシャツに、ジーンズを履いていた。目立つ特徴は、何もない。 「……よく見ると、かわいい顔だな」  声が低い。言葉のアクセントから、関東に人間であるとわかる。語尾が強く、どこか挑戦的に聞こえていた。 「げ?」  どうして俺に寄ってくるのだ。しかも、ねっとりとした、視線を感じる。 「犬、こいつを攻撃しろ」  犬に襲わせる気なのか。やっと立ち上がると、俺は、犬と目が合った。唸る犬は、俺にかみつこうとしている。 「名前をあげる。君は今から、タケシ君、飼い主を変更してください」  犬が、更に唸った。タケシでは気に入らないらしい。 「ラッシー」 「ワンワンワン」 『良くわかっているじゃないか。まあいい、こいつ嫌いだし、飼われてやるよ』  洋風な名前が好きなのか、名犬だと主張しているのかは分からない。  更に近寄ってきたので、俺が後ろにさがると、ニヤリと笑った。 「儀場のいい人だよね。儀場、男、大好きだからさ」  あ、そうか。俺はボクシングをやっていた事もあった。  俺が構えた瞬間、男が消えた気がした。すると、間近に現れ、俺の頬を舐めた。 「儀場じゃなくてさ、俺と、いいコトしようよ。俺もうまいよ」  いつの間に、俺は隅に追われていたのか。身動きが取れなくなっていた。首を絞められて、キスを強要されそうになる。必死になって顔を背けると、腹に拳を叩き込まれた。 「キスくらい、ここでも、いいだろ。あとは、いい場所でぶち込んでやるからさ」  ぶちゅと、温かいものが、唇を塞ぐ。これは、気持ち悪い。全身に寒気がして、小刻みに手が震える。  嫌がるという気持ちが、よく分かった。しかも、男に力任せに迫られるということが、怖いというのもよく分かった。  女性が夜道を怖がるのは、こういう男がいるせいなのだろう。  男が、俺の頬を舌で舐め、首に吸い付く。 「ラッシー!」
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