本編

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 庭先で薄青が少しずつ主張を始めている。  涼しげに鳴くウグイスの声と、瑞々しい新緑が眩しくて目を細めた。  紫陽花はもうすぐ満開だ。  父親の急な転勤で、律が長野の片田舎へと越してきたのは、ほんの一週間ほど前。  東京の雑踏に慣れきった律にとっては何もかもが新鮮で、窓の外をただぼーっと眺めるのがここ数日の日課となっている。 「昔この街に住んでたってホントかなー。ゼンゼン覚えてないな~……」  間延びした緊張感のない声。  窓枠に肘をついたままのだらしない呟きは、めくってもめくっても探り当てられない記憶のアルバムに埋もれて飽いた結果だろう。  十年前、この町で半年間暮らした時、律は六歳だった。  人手不足だった町工場にヘルプで来ていた父、誉が、今や責任者として舞い戻った理由もまた人手不足らしい。  このよそよそしい町が縁のある場所だなんて、律にとってはまるで現実味のない話だ。  『この辺覚えてるか?』 ――引越し当日、車を運転する父に訪ねられたが、車窓を右から左に駆け抜ける景色が立ち止まることは、とうとう一度もなかった。  それどころか捕まえようとすればするほど、手の届かな場所に逃げられてしまう気さえした。  大した反応を示さない律に、誉は少しばかり困ったような表情で笑みを浮かべる。 『やっぱり母さんのせいかな……』  律の記憶がほとんど残っていないのは、母親と死別したショックが原因だと誉は思っているようだ。  心臓疾患で急逝した母親に異変の前兆はなかったらしい。文字通り突然の別れ。  この地に移り住んだのがその直後ともなれば、結びつけずにはいられないのだろう。  ピリっと雷が走るように、一瞬の痛みが頭のなかで弾ける。 「イター……今のなに?」  この一週間、度々同じような頭痛に襲われることがあった。しかも十年前のことを思い出そうとした時に限って。  誉の言う通り、母親を亡くしたショックから過去を手放したのだろうか。  ――ズキン。わからない。 ――ズキズキ。忘れた理由さえ忘れている。 ――ズキズキズキ。 「あたた……っ! 頭っていうより、おデコ痛いかも……!」
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