第1章

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こつこつと、長い影をひいて二人は行く。 平日の深夜だ。人はもちろん、車も来ない。 「普段なら、流しのタクシーぐらい拾えるんだが、時間的に出払っているんだな」 彼は腕時計を見る。つられて彼女も自分の手元を見たが、その手は彼に捕らえられた。 ずらした腕時計の場所に、唇を寄せる。 強く吸う口付けだ。 少しの痛みと心地よさに、彼女は頬を赤らめた。 「約束したろう、跡が消える前にこの上に口付けると」 「ええ」 彼がつけた名残の口付けの跡は、今ではすっかり消えていたのに、新たな痕跡を確かめるように彼は唇を這わせ、舐めた。 「果たせなかった」 「慎一郎さん」 「次は、必ず守る」 彼女は小さく頷いた。 つと、慎一郎は視線を移す。その先にはバス停があった。 最終バスはとうの昔に終わっている。秋良は人がいない待合いのベンチに誘われるまま座り、彼の肩に頭を預ける。 鼻孔を満たすのは、酒と煙草と、男の匂いだ。 誰よりも好きでたまらない。恋しい男の。 夫は妻の元に帰ってくるものよ。 宗像の妻が言ったひとことが思い浮かんだ。 「帰りたい」秋良は腕に頬を擦り寄せる。 「どこへ?」 「家へ」 「家?」 「私たちの家。これからあなたと作る家に帰りたい」 「ああ、そうだ」すがる彼女の身体を慎一郎は抱いた。 どこにでもある、ふつうの家庭と変わりない。 彼がいて、彼女がいて。 訪ねてくる友人がいて。 ふたりで食卓を囲み、他愛ないことをいつまでも語り合う。 100の笑いと、101回の愛、そしていつの日か産まれるであろう子供が言う。「ただいま」と。 彼らは「おかえり」と言って迎え入れる。 どこにでもある日々は本当はどこにでもあるものではない。 尊くて簡単に失われるものだ。 そのことは私以上に彼が知ってる。 愛しの我が家を欲しているのは慎一郎さんなのだから。 「帰ろう」慎一郎は言った。 「君がいるところが、僕たちだけの家だ」と。
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