11人が本棚に入れています
本棚に追加
こつこつと、長い影をひいて二人は行く。
平日の深夜だ。人はもちろん、車も来ない。
「普段なら、流しのタクシーぐらい拾えるんだが、時間的に出払っているんだな」
彼は腕時計を見る。つられて彼女も自分の手元を見たが、その手は彼に捕らえられた。
ずらした腕時計の場所に、唇を寄せる。
強く吸う口付けだ。
少しの痛みと心地よさに、彼女は頬を赤らめた。
「約束したろう、跡が消える前にこの上に口付けると」
「ええ」
彼がつけた名残の口付けの跡は、今ではすっかり消えていたのに、新たな痕跡を確かめるように彼は唇を這わせ、舐めた。
「果たせなかった」
「慎一郎さん」
「次は、必ず守る」
彼女は小さく頷いた。
つと、慎一郎は視線を移す。その先にはバス停があった。
最終バスはとうの昔に終わっている。秋良は人がいない待合いのベンチに誘われるまま座り、彼の肩に頭を預ける。
鼻孔を満たすのは、酒と煙草と、男の匂いだ。
誰よりも好きでたまらない。恋しい男の。
夫は妻の元に帰ってくるものよ。
宗像の妻が言ったひとことが思い浮かんだ。
「帰りたい」秋良は腕に頬を擦り寄せる。
「どこへ?」
「家へ」
「家?」
「私たちの家。これからあなたと作る家に帰りたい」
「ああ、そうだ」すがる彼女の身体を慎一郎は抱いた。
どこにでもある、ふつうの家庭と変わりない。
彼がいて、彼女がいて。
訪ねてくる友人がいて。
ふたりで食卓を囲み、他愛ないことをいつまでも語り合う。
100の笑いと、101回の愛、そしていつの日か産まれるであろう子供が言う。「ただいま」と。
彼らは「おかえり」と言って迎え入れる。
どこにでもある日々は本当はどこにでもあるものではない。
尊くて簡単に失われるものだ。
そのことは私以上に彼が知ってる。
愛しの我が家を欲しているのは慎一郎さんなのだから。
「帰ろう」慎一郎は言った。
「君がいるところが、僕たちだけの家だ」と。
最初のコメントを投稿しよう!