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「ムラヤマさん、ムラヤマヒデオさん、三番の診察室へどうぞ。」
年配の滑舌の悪いアナウンスの為、聞き間違えたのかと思った。
しかし確かに『ヒデオ』と言った。
「なんだ、間違ってるぞ。」と言う日出雄に「行きますよ。」と香は促した。
診察室に入ると声から想像した通りの年配の医師が座っていた。
香は深々と頭を下げた。
「予約していたムラヤマさんですね。」
『予約していた』とはどういうことだ。香はにっこりと笑いこう言った。
「ごめんなさいね、こうでもしないと病院に行ってくれないから。」
日出雄は騙されたというよりも、香にここまで心配をかけてしまったことに申し訳なく感じていた。
検査の結果、日出雄の脳の血管が詰まりかけていたことが分かった。
だが、大事には至らず、薬の服用で事なきを得た。
これが詰まってしまっていたら、命に係わっていた。
もっとも薬の効果を下げてしまうことから、納豆は食べてはならないとのこと。
これが毎朝納豆を口にする日出雄にとっては苦痛だったりした
香は心底ほっとした。
日出雄も同じ気持ちなのだが、どこかで「このまま命が終わっても構わない。」と思っていたことに気が付いた。
それからの日出雄は、以前のように仕事に打ち込んだ。
自分の心のどこかに空白がある。
どこなのか、何なのか、見当もつかない。
不満はない。
でも満たされてもいない。
わずかに芽生えた感情にフタをする為、何も考えないようにする為、とことん仕事に打ち込んだ。
香との時間も大切にした。
時間があれば家に戻り、年に一度は旅行に出かけた。
結婚記念日にはペアカップを購入した。
そしてカップが二十五脚を超え、置き場所が悩ましくなった頃、香は腰の痛みを訴えだした。
「いやねえ、わたしも年かしら。」
「俺より若いんだから、年だなんて言ってくれるなよ。」
おどけて見せる香とは裏腹に、日に日に痛みは強くなっていった。
近くの整形外科で診てもらったが特に異常はみられなかった。
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