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女は、思い詰めたように顔を上げ、はっきりした口調でそう言うと、再び、大きい瞳で僕を見つめた。訴えるようなまなざしだった。
僕はうろたえた。だが、こういう場合、はたして拒絶できるものだろうか。
「………。そ、それは構わないけれど、でも………、僕も忙しいんで、返事は書けませんよ………」
「いえ、読んでいただくだけでいいのです」
「そうですか。困ったな………。じゃあ、どうしてもと言うのなら、ここが会社の住所なので、親展というふうに封筒に書いてください。そうすれば、そのまま僕のところにくるはずだから」
そう言って、僕は会社の名刺を渡した。さすがに、僕の自宅の住所を教えるのはためらわれた。
「ありがとうございます。私、サチコ、といいます。幸せな子だなんて、嘘みたいでしょう?」
そう言って、彼女は初めて微笑んだ。
僕は、ゆっくりとベンチから立ち上がって、彼女のほうに目で挨拶すると、あとはもう振り向かずに、中庭を横切ってもとの廊下の椅子に戻った。夏草の香りが遠のき、ほこりと、何人かの息と、薬と、黴のようなものが混ざった空気が、再び僕を包んだ。
僕は、たった今の中庭での出来事が、本当に現実にあったことなのかよく分からない思いだった。ガラス越しにそちらのほうを見てみたが、もう女の姿はどこにもなく、ただ明るい陽射しが静かに溢れているだけだった。
僕は、医師の幾つかの質問に答え、とりあえず薬を出すから一週間それを飲んでみてもう一度来るように、と言われてその病院を出た。
病院の門の前には、来たときと同じように水田が広がっていた。その、植えられたばかりの苗は相変わらず細く弱々しかったが、これから半年足らずの間にはたくましく延び、見事な稲穂となってコメを実らせるのだと思うと、その生命力が羨ましいような気がした。
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