2人が本棚に入れています
本棚に追加
「チヨ、あんた顔色悪いけど、大丈夫かい?」
台所の方から女将の声がした。シノコは何故だか、動いたらいけない気がして、その場で、ただ耳をそばだてた。
「少し疲れたみたいです」
チヨの声。
「何かあったのかい?」
「いえ、何も」
「まぁいい、ちょっと休みな。自分の部屋に戻ってても構わないよ」
「じゃぁ、少し御言葉に甘えて......」
それからチヨの足音は階段を軋ませ、消えていった。
その晩、下へチヨが降りて来る事はなかった。
※
旅館くにがしらの名物は温泉であった。
風呂を目当ててやって来る客も多い。
故に店の者は、客の来ないであろう時間にさっさと風呂に入ってしまう。
シノコはその隠れるように入る風呂が好きであった。
早朝のまだ日の昇らないような時間に、薄らと白い星を浮かべた青い空を眺め、湯に浸かるのが好きであった。
だから、出来るだけ早く起きて、他より先に一人風呂に身体を沈めるのだ。
その朝も、寝間着を脱いで裸になり、タオル一枚頭に乗せて曇る露天風呂のガラス戸を開けた。
ところが変な事に、露天の煙の奥に既に微かな人影があって、静かな鼻歌がどこからともなく湯に囁いていた。
「シノコ?」
声が尋ねた。
チヨだった。
「うん」
湯に足をつけると、冷たい身体がじんわりと温まっていった。風が冷たいので、シノコはそのままざぶりと湯に入る。
最初のコメントを投稿しよう!