古く慣る

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「チヨ、あんた顔色悪いけど、大丈夫かい?」 台所の方から女将の声がした。シノコは何故だか、動いたらいけない気がして、その場で、ただ耳をそばだてた。 「少し疲れたみたいです」 チヨの声。 「何かあったのかい?」 「いえ、何も」 「まぁいい、ちょっと休みな。自分の部屋に戻ってても構わないよ」 「じゃぁ、少し御言葉に甘えて......」 それからチヨの足音は階段を軋ませ、消えていった。 その晩、下へチヨが降りて来る事はなかった。 ※ 旅館くにがしらの名物は温泉であった。 風呂を目当ててやって来る客も多い。 故に店の者は、客の来ないであろう時間にさっさと風呂に入ってしまう。 シノコはその隠れるように入る風呂が好きであった。 早朝のまだ日の昇らないような時間に、薄らと白い星を浮かべた青い空を眺め、湯に浸かるのが好きであった。 だから、出来るだけ早く起きて、他より先に一人風呂に身体を沈めるのだ。 その朝も、寝間着を脱いで裸になり、タオル一枚頭に乗せて曇る露天風呂のガラス戸を開けた。 ところが変な事に、露天の煙の奥に既に微かな人影があって、静かな鼻歌がどこからともなく湯に囁いていた。 「シノコ?」 声が尋ねた。 チヨだった。 「うん」 湯に足をつけると、冷たい身体がじんわりと温まっていった。風が冷たいので、シノコはそのままざぶりと湯に入る。
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