ボサノバ

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多国籍な音楽が流れるスタンディング・バー。 中央の小さなホールは、ライブのない今夜、グラス片手に自由に行き交う人達で溢れる。 あなたのお気に入りの店。 カウンターに寄りかかって乾杯した後、あなたは何でもないことのように切り出した。 「ブラジルに行くよ、来週。 今度はきっと、もう帰らない」 わかってた。 あなたはきっと、そうするだろう、って。 「一緒に来るか?」 『一緒に来て欲しい』でも 『一緒に行こう』でもなく、 あなたは私にそう尋ねた。 「……ちょっと踊らない?」 グラスをカウンターに残し、あなたの腕を引いてホールに降りた。 音楽は、ボサノバ。 あなたは私の肩と腰に手を添えて、適当に身体を揺らすくせに、でも自然に音に乗っていく。 なのに私はこの独特のリズムに、乗り切れない。 あなたとぶつかる膝、爪先、頬。 まるごとあなたに身体を預ければ済むのに、私にはそれができない。 あなたは黙って、そんな私を抱きしめた。 音に揺れながら、もう一度耳許に聴こえる、その声。 「一緒に来るか?」 答えはわかってるくせに、私に選ばせる。 返事は、できなかった。 私は常識に囚われない女だって、自分では思ってた。 同棲とか結婚とかの形に縛られなくても、一緒に歩いて行くことはできる。 ずっとそう思ってきたし、事実、今までの男とはそうしてきた。 でも、あなたに出会った。 誰よりも自由で、誰よりも自分中心で、 だからこそ誰よりも優しいあなたに。 優しくて、ズルいあなたに。 傍にいたいと、そう思ってしまう、あなたに。 音楽が、ジャズに変わる。 耳慣れない音楽が当たり前なこの店には珍しい、スタンダードなスウィング。 耳が、身体が、ホッとするのがわかる。 「離して。ジャズなら一人で踊れるから」 「……」 「帰っていいわよ。準備、大変でしょ? 私はもうちょっと飲んで、踊って行くから」 私はあなたに背を向けて、一人ホールの中央に歩く。 脇をすり抜けるバーテンダーのトレイから、テキーラのロックグラスをつかんで飲み干し、 そしてスロウなジャズのリズムに身を委ねた。 ジャズならこんなに自然に身体が動くのにね。 結局私は、耳馴れたジャズの世界に生きてる。 ボサノバには馴染めない。 だから私の強がりを、せめて黙って見逃して。 今は一人で、踊らせて。 今は、このまま。 Fin.
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