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「社長の手前、一人で帰すのはな」
「お父さんには、美恵達が誤魔化してくれるって、言っていたわよね?」
「それとこれとは話が別だ」
真顔で言い切られてしまった美子は、納得しかねる顔付きになって首を傾げる。
「そういう物なの?」
「そういう物だ。大人しく送らせろ」
「はぁ……」
正直、理屈が良く分からなかった美子だが、どうやら本当に家に帰るまでは放して貰えないらしいと察した為、大人しく起きて顔を洗う為にバスルームへと向かった。そして化粧をして着物を身に着けて荷物を確認した美子は、手慣れた様子でドアの横に設置してある精算機で支払いを済ませた秀明の後に付いて、大人しく歩き出した。
秀明は予め場所と時間を指定してタクシーを呼んでいたらしく、幹線道路の歩道に出て佇むとすぐにタクシーが目の前に静かに停車し、二人はそれに乗り込んで藤宮邸へと向かった。しかし秀明が鞄から何かの書類を出して黙って目を通し始めたのと、美子にしてみれば改めて話題に出す様な事も無かった為、車内が静まり返ったまま、そのタクシーは走り続ける。
そして藤宮邸の門前にタクシーが停車した時、秀明は漸く書類から顔を上げた。
「それじゃあな」
「お世話様でした」
短く声をかけてきた秀明に、美子も些か素っ気なく頭を下げて、車外へと降り立つ。再び走り出したタクシーの後部座席で一人になった秀明は、何気なく空席になった隣を見ながら、どうでも良い事に思い至った。
(考えてみれば……、女と一緒にホテルに入って、何もしないで出たなんて初めてだな)
そんな事を考えて、「俺らしくない」と思わずくすくすと笑い出した秀明は、何とか笑いを抑えて窓の景色を眺めながら呟く。
「どうやら今朝は、俺にとっては記念すべき朝らしい」
自嘲気味な呟きを含んではいたが、どこか満足げに微笑んだ秀明は、それからすぐに真顔になって再び手元の書類に目を通し始めた。
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