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「大丈夫。本日の俺のお相手は今、あの向かいの書店の中なんだ。もう小一時間も出て来なくてね。退屈至極。あと一時間も居座られたら、俺はここで石になっちまうよ」
「素行調査ですか?」
「不貞のほう」
春樹はちらりと書店に視線を送った後、薫の横の椅子に腰掛けた。
「美沙が言ってました。そのうち鴻上支所も行方調査だけじゃなくて、素行や浮気調査もしなきゃいけなくなるから、その覚悟しといてって。大変なんでしょうね」
春樹はそう言うと、椅子の背に体を沈め、前の通りに視線を移した。
美沙の名を出した時、その綺麗な目に憂いが浮かんだように思えたのは、気のせいだろうか。
白くキメの細かい少女のような肌と、色素の薄い、琥珀色の瞳、長い睫毛。
そう言えば美沙がうらやましいと言っていた艶やかなストレートの亜麻色の髪。
何気なく、吸い寄せられるように細い顎のラインを見ていた薫は、小さな耳たぶにホクロを見つけた。
「ピアスみたいなホクロがあるね、君」
少しふざけた調子で言い、何気なくその耳に手を伸ばした瞬間、春樹は弾かれたように立ち上がり、体を離した。
まるで怯えたウサギだ。
ガタリと椅子が大きな音を立て、近くに座る数人の客がチラリと視線を向けた。
「え…」
驚いて声を出したのは薫の方だった。まさかそこまで引かれるとは思っても見なかった。
こんなスキンシップは、薫に取ってはいつものことだったのだ。
「いや、ごめん春樹くん。なんか……驚かせた? 別に変なことしようと思ったわけじゃないから」
慌てて薫が弁解すると、春樹は申し訳なさそうに目を伏せながら、再びゆっくりと椅子に座った。
「ごめんなさい。あの……そうじゃないんです。僕もつい……」
春樹はその後の言葉を探すように薫の胸あたりに視線を泳がせていたが、そのうち小さな声で、ためらいがちに呟いた。
「薫さん……。猫、飼ってますか?」
「猫?」
猫がいったいどうしたと思いながら春樹を見ると、その目はまるで一か八かの勝負に出たと言わんばかりの真剣な光を宿していた。
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