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「でも、浮気現場を押さえなきゃ成功報酬が貰えない僕らの仕事って、考えたら悲しいですよね。現場を捉えても、どちらも幸せにならない気がする」
春樹が声を沈ませ、向かいの書店に視線を置きながらポツリと言った。
「まあね。それで食ってる以上仕方ないさ。世の中汚れ役も必要なんだって割り切らなきゃね。ともかく、しがない調査員の俺には本日、あのサラリーマンの尻を追っかけるコースしか用意されてないってわけ」
「僕としては……」
「僕としては?」
「あの鈴木さんにずっと書店に居てもらって、清く一日を過ごしてもらいたい。そしたら薫さんに買い物、付き合って貰えるのに」
カーンと何かで頭を殴られたような衝撃があった。いや、鐘が鳴ったのか。
春樹、今のは何のつもりだ。どういうつもりでそんなことを言った?
薫は聞かなかった振りをして視線を前の車道に走らせたが、じわりと滲み出した汗に、ぶるりと体を震わせた。
何を期待しているのか、はたまた勘違いしているのか、心臓が鼓動を速める。
「あ、あの人?」
いきなり春樹が声を殺して言った。
薫の妄想はザザッと振り落とされ、瞬時に仕事モードに戻る。
書店の入り口を見ると、出てきたのはまさしく鈴木だ。
しかしどうやら連れがいるらしく、鈴木のあとから、やはり冴えない風体のヒョロリとした男がついて出てきた。
入る時は一人だったのだが、店内で友人と出会ったのだろうか。
とにかく、今はその連れのことを詮索している時間はなかった。
「春樹、行くぞ」
薫はさりげない仕草でコーヒーのカップを横の屑かごに放り込むと、立ちあがった。
「……え?」
「尾行、尾行」
「僕も?」
「いいから。ほら、騒ぐと気付かれるよ。いずれ浮気調査も導入するんだろ? 予行演習だよ」
「はあ……」
無茶ブリだったが、驚いたことに、春樹は素直に立ち上がった。
“お? 本当に付いてくるのか?”
薫の心の声が聞こえたのか、春樹は薫の目を見て小さく頷いた。
おーっし。いいぞ、面白い。
今日の尾行は空振りかもしれないが、退屈だけはしなさそうだ。
薫はにわかに嬉しくなって、道の向こう側に顔を向けたまま、ニタリと笑った。
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