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――聖なるかな、聖なるかな
その日は生憎の雨だった。
柔らかい、霧のようなそれは傘を必要とする程でもない。ゆえに、リリィ=アンジェも傘を持たず、人通りもまばらな道を行く。バレッタで簡単に止めただけの、長いハニーブロンドの髪が少し重たいが、決して不快では無かった。隣に並んでリリィに歩調を合わせてくれているヴィンセントは、この静けさに、いささか退屈なのだろうか。欠伸(あくび)を噛み殺している。その仕草にくすり、と思わずリリィから笑みが零れた。
「あれだけ眠ったのに、もう眠いの?」
リリィが眉尻を下げると、仏頂面の恋人は少し上からリリィをじとりと一瞥して、視線を前に向き直す。
「……周りが静かすぎるからだ。それより、着いたぞ」
――パリ、ペール・ラシェーズ墓地。
ここは無数の人々が、生前の名声や地位に関係なく、悠遠の眠りについている場所である。誰もが知るピアニストから小説の登場人物まで、埋葬された著名人の多さから観光名所になっているが、今日はこの霧雨に救われて人気は少ない。
二人は、うっかりすれば見落としてしまいそうな小さな墓石の前で足を止めた。墓石はまだ比較的新しい。
その小さな墓石に、リリィは小さなサーモンピンクのバラの花束を置いた。
「……久しぶり、アベル」
墓石は霧雨を受けて、僅かに曇って見えた。ここに来るまでかなりの時間を要してしまった。
眠っていても、アベルは怒っているのだろうか。
そんなことすら頭に浮かんだ。
リリィにとって、ここには絶望と救済が混在している。無意識に右手の甲を、左手で押さえていた。その手を優しくヴィンセントが制する。
「ああ、ごめんなさい。ここに来ると、つい、ね」
「俺に謝ることじゃない。ただ……アベルが気にする」
左手を外したリリィの右手の甲には、百合が絡む白い十字架のタトゥーが刻まれている。リリィにとって、この右手は忌々しく、愛おしい出逢いと愛の印だった。
「リリィ、報告がまだだ」
「ええ、そうね。ふふ、アベルはどんな顔をするのかしら?」
「さあ。だが、きっと……あいつなら喜ぶ」
少々の瞑目(めいもく)の後、リリィはふわりと辺りを覆う霧雨のような柔らかな笑みを墓石に向けた。
「パパ・アベル。私、ヴィンセントと結婚するわ」
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