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奇跡という名の天使が現れたのは、闇と孤独にようやく慣れ始めた頃。
ぼくはその夜、神を忘れ、ただ失意に溺れていた。
そんなぼくの目を突然掠めたもの……陽の色をした幻影が、闇に閉ざされていたはずの扉を切り開いた。
そこに立っていたのは、まぎれもない天使。
黄金色の羽をはばたかせながら、彼女はぼくの手を引いた。暗闇の絶え間よりさしこんできた光の源泉へと……。
初めて心は飛翔し、ぼくは翼と使命を得た。
一七八五年。
聖週間が終わってまもなく、ぼくは宮廷に呼び出された。
今年に入って何度目だろう。毎日宮廷でオルガンなんかを弾いていると、どうも王侯貴族の暇潰しにされてしまうものらしい。
ぼくはギリギリと歯ぎしりしながら宮殿に入っていった。
「やあやあ、ベートーヴェン君!」
彼は、実に陽気に明るくぼくを迎えた。
選帝侯マクシミリアン・フランツ。昨年から我が町ボンの支配者となった人。決して悪い人ではないのだが……。
「また何だってぼくを呼び出されるんです?」
ぼくが彼にくってかかると、
「まあまあ」
と選帝侯は笑いながらぼくを宥める。彼が今から何を言い出すかはもう分かっていた。彼は、この週間中にぼくが楽団の連中とやらかした喧嘩についてとがめるつもりなのだ。
だが、あれはどう考えても人の父親を侮辱してきた向こうが悪い! なぜぼくだけ呼び出すんだ? 選帝侯が口を切ったら、たとえ殺されたとしても無実を主張しようと構えていた。
「ベートーヴェン君」
「なんです!!」
「ウィーンに留学してみないか?」
「あれは……!!」
大きく息を吸い込んだ勢いで、想定していた台詞への答えを吐き出そうとしていたところ、予想違いで言葉を飲み込まざるを得なくなり、呼吸困難になって咳込んだぼくを見て、彼は大笑いした。彼はぼくを見るたびにこんなふうに笑うのだ。
「……ウィーン!? 留学!?」
でも今はそんなことに腹を立てている場合じゃない。ぼくは声を裏返して叫んだ。
「そうだ。今し方、楽長とその話をしてね。君のそのおっかない顔を世界中の人々に知ってもらおうという計画さ」
「ホ……ホントですか!!」
「本当だとも」
「うわっ!!」
ぼくは喜びのあまり大声をはりあげて宮廷を飛び出した。
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