第一章 才能の誕生

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「おまえがすべてだ。俺はもう、身も心も傷つき果てて、すさんじまった。俺はすべてに絶望し尽くした。だが、それを認めてしまえば、もう死ぬしかないんだ。そのことを忘れなければ、生きていけない……」 「……」 「酒はすべてを忘れさせてくれる。酔い潰れて……忌まわしいすべてがからっぽになったあと、まるで幸せの中にいるように、おまえだけが見えてくる……」 「……」  ぼくは表情を変えずに聞いていたが、心は感動に泣いていた。  けれど、その明くる日にはもう、その感動も彼の方では忘れてしまい、またわけもなくぼくを殴りつける横暴な父に戻ってしまうのだった。  打ち破られてきたいくつもの願い。今も……そう、心の中で叫び続けている。  生まれたときから、人より年老いていた。  この世になじめず、いつも独りぼっちだった。  生きることは孤独に耐えることだった……そんな中で、大切なもの、守りたいものは、家族だけだ。  選択の余地なく、このぼくに繋がれて生きている人たちの幸せを確保するために、そのためだけに、今まで生きてきた。  なぜ……その愛を欲することすら許してくれない?  ぼくは、氾濫する心を抑えながら家に辿り着き、眠りこけてしまった父をそっとベッドに下ろした。  宮廷テノール歌手、ヨハン・ヴァン・ベートーヴェンを。
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