辺境の花と濃紺の兵服

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辺境の花と濃紺の兵服

海の夢を見たー。広い何処までも続く海原を一人ぼんやりと眺めていたーー。風は涼しく、日の光が波間に優しく煌めいている。白い砂浜に佇む自分にはそれまでの自分というものの記憶が無く、ただ自然の中に溶け込む霧のような個として、形ばかりの身体があるだけだった。繰り返す穏やかな波の音が思い出しかけた何かを次々と攫ってゆくーー。焦るわけではない。けれども遠い昔だか、ほんの数分前だかに起こったであろう何か『大切なこと』を思い出せないでいた。ただ波の音が続いてゆくー。 不思議なものだな、と兵士は目覚めてから思った。兵士はそれまでの人生で、海など行ったことが無かった。この科学技術の発達した現代に於いて、あらゆる媒体を通し海を知らないわけは無論無かったが、しかしー。風の温度も、耳に響く波のリズムも、よくもああ現実味のある夢を見たものだーー。兵士は小柄な身体をベッドから起き上がらせると、もう今見た夢の事など考えなかった。寝ている間に着ていた薄手の濃紺の軍服とさして変わり映えせぬ色合いとデザインの軍服に着替え、蒼みがかった黒髪をたった何度か櫛で梳かし、顔を洗えばもういつもの仕事の空気を纏った軍人の出で立ちだった。枕元に置いていた銃を腰に携えると、まだ朝日満ちぬ官舎の廊下を真っ直ぐ歩いていったー。
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