第1章

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bye 三浦はかつんと踵が低い靴のヒールで一回大きく床を蹴ってその場を去る。 まっすぐ前を向いて。 ぴんと背筋を伸ばして。 ――そう、私もしなやかに歩く足を持っている。 あの人みたいに、まっすぐに前を向いて。 私は私。 秋良はこの世で私ひとりだけ。 慎一郎さんを追いかけていた少女の頃の自分と、今の自分。 どちらも同じ人間なの。 過去の自分は、きっと今の私を羨む。 でも、少しだけ、片想いに焦がれていた、一途な自分も大切にしてやりたい。 その思いを胸に抱いて温めていたから、今の私がある。 「ねえ、慎一郎さん」 「うん?」 「私、シャチが見たいわ」 秋良は慎一郎にしなだれかかる。 「あなたが知ってるのと同じものを」 「シャチをか……?」 「だって、あなた仰ったでしょ。どこへでも連れて行ってくれるって」 「……言った」 「私は子供の頃のあなたが何を見たか、知りたい。ただそれだけなんです」 過去に遡って同じ時を過ごすことはできない。でも、思い出なら共有できる。 秋良は想像する。 鈍色の空と海原。そこにいるのは大きな海洋生物。 その場所はきっと寒くて、暗くて、海は広く、人はいない。 側には彼が愛した家族がいて、少年だった慎一郎が歓声を上げるのだ。 彼が大切なもの、好きだったこと、愛した過去。 全てを受け止めたい。 秋良は腕に頬を寄せ、『夫』を見上げた。 夫を見つめる妻へ、返す夫の眼差しは熱い。 身の内に湧き上がるのは、心を満たす温かさと、一度覚えてしまった身体の疼き。 満たされていないのだと言って、彼女を揺さぶる。 秋良は気を紛らわせたくて深く息を吐き、慎一郎は彼女の手を撫で擦る。 ひやりとした掌を包み込みながら、彼は指先で文字を書いた。 君が欲しい、と。 答えは最初から決まってる。 秋良は甘い予感に身を震わせた。
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