第1章

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 ここを走る電車は古いものばかりで日本では骨董品だ。科学の進歩はお嫌いらしく、空間液晶もない。さらにいえば、電車が来るのが遅い。平気で十分以上も遅刻する。  予想よりも遅れたが、定刻前には会社に就いた。ドイツのしがない出版社。今の流行はアジアの悪口かタカ派の賛美で、上品とはいえないが本当の仕事のためには仕方ない。 「よっ、ミハエル。また、事件が起きたらしいぜ」  同僚の男が空間液晶に映し出されたニュース番組を見せる。  それは、今朝起きた事件だ。 「ああ、知ってるよ。家で見たばかりだ」 「それなら、追加情報。どうやら、襲われた男な。子供連れで歩いていたそうだ」  どうやら、襲われた男は自分の子供を集会に連れて行っていたらしい。よくある話だ。私のような他人から見れば理解できないが、本人は本当に子供のためを思って連れて行ってたのだろう。 「見ろよ。個人的には同じ白人でも奴らの思想は引いてしまうが……辛いものがあるな」  空間液晶。  小さな女の子が泣いていた。  何度も、おとうさん、おとうさん、と叫ぶ。 「そういうのばかり見ていると辛いぞ」 「分かってるよ」  友達に忠告したあと、私は手を洗いに行った。  ここに来るまで読んでいたサルトルの『嘔吐』は、机の中にしまう。  2  マリエン広場は観光客が多くてにぎやかだ。  新市庁舎の仕掛け時計が、十二時を知らせた。観光客は口を開けて鑑賞するが、私は見慣れてるので素通りで昼食を取りに行く。中には私を見て「外人は気にしないんだな」とつぶやくのもいたが、どんなものも慣れれば退屈に決まってる。さらに言えば、ここに住んでる者からすれば、お前等の方が外人だ。 「それに、あれはコレラが大流行したときに病疫を退散させるための踊りだぞ。見た目は陽気そうでもだ」  ……いや、少し冷静さを欠いているな。気を付けないと。彼らにとって、私はコーカソイドのドイツ人でしかなく、別世界の人間だ。そうでなくはならない。 「………」  カフェで屋外のテーブル席にすわり、サンドイッチとコーヒーを注文する。  しばらくすると、一席分離れた向かいの席に白人男性らしい者がすわった。  彼はプレートにシナモンロールとコーヒーを載せている。そのまま食事をせず、彼は読書に没頭した。懐から取り出したのは、『誰が悪いのか』という本だ。
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