第十章『露梁海戦』

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慶長三年(1598年)十一月十日、麗水半島の付け根に位置する光陽湾の小高い丘にある順天城ではやっとのことで小西行長と明将劉鋌の間に講和が成立した。行長は船団を仕立て海上から撤退しようと目論む。 ところがこの頃、明軍と朝鮮軍にも秀吉の死が伝わり、成立した講和を無視する形で明軍は朝鮮軍と共に海上封鎖を行っていた。 船団を率いて南下しようとしていた行長は海上を埋め尽くした敵兵に南下は不可能と判断する。そのまま順天城へと引き返した。  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 十一月十五日、撤退のため昌善島に集結していた島津義弘、立花宗茂、宗義智らは順天城の小西行長が約束の期限になっても姿を現さないことに疑念を感じ、子細を調べさせていた。 そこで敵軍の海上封鎖を知る。 「小西殿を見捨てる訳にはいきもはん。急ぎ助けに行きもそ」 義弘の言葉に他の将も同意し、直ぐに救援軍の編成を行う。左軍諸将の撤退の差配をしていた水軍の寺沢広高が五百隻の船を準備し、十一月十七日夜半順天へと向かった。
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