月の女王

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 夕闇に近づくにつれ、雨脚は強さを増していた。薄く開いたビルの窓からは、夏の湿気をはらんだ風と共に入り込んだ雨粒が床を濡らしている。  閑古鳥が鳴いて久しい事務所のクーラーを稼働するのは、外気温が三十五度を超えてからと決めている。滝川行平は本来の用途を果たしていない来客ソファの片側に腰を沈めたまま、木目調の応接テーブルに目を落とした。  散らばったカードの端が温い風にあおられてひらりと浮き上がる。スペードのエース。  行平は一度も出したことがない、ロイヤルストレートフラッシュだ。先ほど自身がはじき出した凡庸なスリーカードが恨めしい。  机を挟んで正面。ソファに踏ん反りがえっている法衣姿の若者が、ひとかけらの興味もなさそうに欠伸を噛み殺した。 「それはあんた、呪われたんだね。その少女とやらに」 「おい、呪殺屋」  苦虫を噛んだ行平の呼びかけに、「呪殺屋」は美麗な顔に、少女めいた笑みを浮かべてみせた。 「なぁに、滝川さん。これで俺の二十四戦全勝かぁ。いいよ、次はババ抜きでも神経衰弱でも、七並べでも」  悪魔の微笑に行平はぐっと文句を飲み込んだ。  ゲームに勝てば、相手に何でも質問することができる。敗者は決して嘘を吐いてはいけない。二人だけの密やかな駆け引きだ。  二十四敗〇勝。ここまで来たら半ば意地である。変人だらけのビルの雇われ管理人、兼、探偵に落ち着いて早半年、以来の戦歴だ。  嬉々として呪殺屋がお題に挙げた「初恋の亡霊」は、行平にとっては大切な記憶のふたを一五年ぶりに開けた、なかなかに重大な出来事だったのだが、さもありなん。 「滝川さんが俺に勝てる日はいつになるのかなぁ」  楽しそうに嘯いた呪殺屋が散らばっていたカードを繰り始めた。手品師のような手つきで箱に滑り込ませながら、 「別にいつでも答えてあげるのに」  行平は黙殺して団扇で冷風を作り出した。無論、自分のためである。人形のごとき容姿の呪殺屋は、光を吸収しそうな衣服であるにもかかわらず、いかにも涼しそうだった。
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