245人が本棚に入れています
本棚に追加
「しかし早く帰国したいからって、間違っても商談相手を締め上げるなよ?」
「それはできるだけ、そうしない様に心がけるつもりだ」
それを聞いた淳は、瞬時に真顔になった。
「おい……、本当にするなよ?」
「あまり自信が無い」
笑いを含んだ秀明の台詞に、淳は若干頭を抱えつつ会話を終わらせた。そして手の中の携帯を一瞬不安げに見下ろしたものの、懸念を振り払う様にして淳は職場へと戻って行った。
男二人の間で、そんなやり取りがあったなど知る由も無い美子は、同じ日に美野と一緒に、夕飯の支度をしていた。
(あれきり連絡は無いし、本当に南米に行ったのよね)
手際良く玉葱を薄切りにしていた美子は、何気なく秀明の事を思い出して密かに腹を立てた。
(全く……。『電話もメールも拒否してるだろう』って決め付けてないで、試してから言いなさいよ! 確かにずっと着信拒否のままにしておいた私が、一番悪いんでしょうけど)
ホテルでのやり取りがあった後に、恐る恐る秀明に電話してみたものの、全く繋がらなかった事を思い出して美子は苛ついたが、自分自身にも非がある事は理解していた為、黙々と調理を続けた。そしてスライスし終えた玉葱をボウルに移してから、今度は大根を取り上げて桂剥きを始める。
(海外で使えない携帯みたいだし、わざわざ会社にあの人の滞在ルートや宿泊先を尋ねるのも大袈裟過ぎるし。第一、一ヶ月すれば帰国するんだから……)
一心不乱に包丁を滑らせていた美子だったが、料理とは無関係な事に気を取られ過ぎたせいか、そこで彼女には珍しく失態をしでかした。
「痛っ!」
包丁を滑らせ、大根を回していた左手の親指をかすめてしまった為、斜めに切れた場所からじわりと血が滲んできたのを見て美子は気落ちし、居合わせた美野は慌てた。
「美子姉さん、大丈夫!?」
「平気よ。ちょっと切っただけだし」
「それなら良いけど……」
苦笑しながら妹を宥めた美子は、冷静に大根に付いた血を洗い流してから、同様に傷口を綺麗にする。しかし美子はそれを見下ろしながら、ぼそりと呟いた。
「ねえ、美野」
「何? 美子姉さん」
「もしかしたら私って……、自分が思っている以上に鈍かったのかもしれないわ」
実にしみじみとしたその口調に、美野は完全に狼狽した。
「えぇ!? 美子姉さんは鈍くなんか無いわ! 指を少し切った位で、そんな自信を無くしたような事を言わないで!?」
最初のコメントを投稿しよう!