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おととしのことだ。サークル活動が終わり帰宅しようとしていた正樹だったが、「……筆箱忘れた」美術室に筆箱ごと忘れてきたことを思い出し、慌てて美術室へと引き返した。特別棟にある美術室への道のりで人とすれ違うことはほとんどない。特に放課後はそうだった。
静かな廊下を走って美術室の前まで辿り着き、――しまった、鍵掛かってるかも。
職員室に鍵は預けることになっているため、取りに戻らなくてはならない。ダメで元々、とドアに手を掛けた時、中から水を流す音が聞こえた。
――こんな時間に。
まだ誰か残ってるのか。
ゆっくりとドアを開けると、こちらに背を向けて蛇口を使っている人が見えた。小さな背中を見ていると、その人は蛇口を止めて何か――雑巾を絞り、クルリと向いて机を拭き始める。こちらには気付かず、その人は黙々とテーブルを拭いた。
「……恵理子」
思わず声を掛けると、恵理子は大袈裟なまでに肩を竦め、困惑したように顔を上げた。
夕暮れ色に染まった美術室。
鼻を掠める、油絵の具の匂い。
お菓子の甘い香り。
こちらに向けられた、大きな黒目。キリッと整えられた眉。夕陽に照らされ、オレンジ色に染まった彼女の頬。真っ直ぐな黒い髪。
「……手伝うよ、掃除」
正樹が言うと、恵理子は短い沈黙の後、照れくさそうに微笑んだ。
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