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黒鉄は反射的に拳を握り、考えるが早いか振りかぶり、撃ち出す。子供にしてはしっかりとした踏み込みで、身体の回転を加えて体重を乗せた、渾身の一撃。
「おおっと、なかなかやんちゃだ」
男は顔色一つ――真っ白のまま――変えずにそれをいなす。手の甲で虫を払い除ける様な動きで、黒鉄の身体を薙ぎ飛ばした。
「ぐあ、ぁッ!」
「ああ、いけない。すまないな。怪我はしていないか」
本当に心配しているような優し気な声色で、顔の無い男は黒鉄に近寄った。指先で地面をなぞり、細長い傷跡を残しながら、身体を揺らす様にして歩いて、動かない小さな身体を見下ろした。
「ああ、何てことだ――ひひっ」
笑いが雑ざる。男は黒鉄の頭を指でくらくらと転がしながら、一人芝居がかった言葉を続ける。
「結界を越えて……見破ったのか? まさかこんな子供――否、年は関係ないな」
恍惚。多幸感。男の中に巻き起こった、懐かしい感覚。
妖精は多くの場合、好奇心旺盛で刹那主義だ。自らの箱庭に入り込んだ生き物で"遊ぶ"。遊ぶためにわざわざ誘き寄せる個体もいるが、それはかなりレアなケースだ。
そして、男はそれだった。彼に悪意はない。純粋な快楽主義で、人間の様な知性と理性を持ち合わせながら、倫理観は妖精そのものである。
後に"ノーフェイス"と呼ばれる、妖精の中でも上位に位置する個体だ。
ノーフェイスは自らのこめかみの辺りに人差し指を突き刺してまさぐる。ぐちゃぐちゃと粘性の高い音がして何か硬いものに当たると、それを引っ掛ける様にして指を引き抜いた。
出て来たのは緑色の鉱石。完全な球形を持つそれは、妖精の力の一部――妖精珠と呼ばれる物体だ。
「いつか、気が向いたら取り返しにおいで。――待っているよ。この子と一緒に」
黒鉄が目を覚ますと、学校の保健室のベッドの上だった。消毒液の臭いとカーテン越しの咽び泣く声が、黒鉄の心をささくれ立たせる。同時に自分が取り返しのつかないことをしたのだと、強く強く、呪いの様に脳髄に染み付いた。
ポケットにある緑色の完全球。その感触が、全てが現実であることを知らせてくる。捨ててしまおうとも思ったが、そんなことは出来なかった。
これは、呪いだ。これを捨てるということは、全てを忘れ、妹の消失から目を逸らすということだ。
両親がそれを許しても、彼自身がそれを許さない。
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