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「ぶ、はっ」
蔦のトンネルを通り進んだ先には、微かなアルコール臭と薄暗い照明が待ち構えていた。作業台の上には洗ったビーカーやフラスコ。複雑な形状を持つ顕微鏡は、妖精の姿を映す、妖精珠を加工してレンズに組み込んだ特注品だ。
薬学室と書かれたプレートが、部屋の前にあるドアのガラスの端に映り込んでいる。黒鉄は作業台の陰に身を隠すと、再び力の回復を図る。
「――くそ」
しかしどうやら、校舎に張られた結界のせいだろうか。回復速度が非常に遅い。ここまでトンネルを通すのにもかなり苦労した。結界の間を縫う様にして蔦を通し、コンクリートを侵食するのにも相当の力を消耗してしまった。
疲労で震える指先で珠を小突く。小さな疑似妖精が棚の中のハーブから生まれると、ガラスをすり抜けて黒鉄の顔の辺りに飛んで来て止まった。
「命令。五感の共有。遠隔操作の設定――成功」
たどたどしい命令の後、妖精の頭部が目玉に変わる。前後左右上下、全方向を順に映し出し、黒鉄は目蓋の裏をスクリーンにして映像を処理する。
疑似妖精はハチドリの様に羽ばたき、天井付近まで上昇すると、ガラスをすり抜けて廊下の景色を映す。廊下は静かだ。しかしそれは人がいないという訳ではない。
人はいる。ただ、その全てが沈黙していた。
僅かな息遣いが聞こえるだけで、一人として動こうとはしない。もしくは動けないのか。水浸しになった廊下に倒れて、痙攣と深い呼吸を繰り返している。まるで陸地で溺れた様な、そんな様子だ。
黒鉄はさらに先を調べる。倒れる人の多さにつれて、力の残滓による空間異常が強くなっているのが分かる。暗く青く、色を持つ霧が濃く湧いていて、その先に元凶がいることは明らかだ。
ぱしゅん、と何かが跳ねる音がして、視界をそちらへと動かした。
「ッ!」
目玉があった。それは赤い果実の様で、目蓋も白目も無いのに、黒鉄はそれが目であると確信した。目玉を包むゼリーの様な身体は廊下に出来た水溜りから持ち上がり、蒼褪めた霧をかき分けて疑似妖精へと向かってくる。
黒鉄はペンダントから手を離すと、目を開いた。と同時に、疑似妖精の反応が消えたのを感じ取る。
「(爪は……まだ足りないか)」
一、二発は撃てるだろうが、持続するのは難しいだろう。思った以上に結界のハンデは厳しい。
「(結界の解除から始めるか)」
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