02 サクラサク

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 それはその日の目覚めの前。有体に言えば夢の中の話だった。妖精のたくさん存在する場所では珍しくも無い、明晰夢の中だ。  透明な泉の辺で、黒鉄は濃霧の中に立っていた。白く淀んだ景色を作り出す粘度の増した空気が纏わりつく。それをかき分けながら黒鉄は前方に進んでいくと、つま先がずぶりと水に浸かるのを感じた。  足元に視線をやると、いつの間にか足首までが水に浸かっている。しかし不思議と足を止める気にはならない。そのまま、おそらくは泉の中央を目指して進んでいるのだろうなと分かった。 「誰だ」  突然、声が聞こえた。分厚い霧のカーテンを隔てて、その誰かは薄らと影を落とす。  目を凝らすと、それは人型に見えた。手足の無い、まるで柱に縛り付けられた人間の様なシルエットがある。泉の真ん中に直立し、微動だにせずにこちらを見つめている――様な気がする。 「英理?」  黒鉄は謎の声が呼んだその名前に戸惑うが、相変わらずこちらからは何も答えずに近付く。腰の辺りも水に沈み、手でかき分けながら前へと往くと、その輪郭がぼんやりとだが見えて来た。  詳細は分からない。しかしそれは確かに人間で、両手両足を枷に縛られた長身の成人だ。黒い石で出来た柱に架せられた彼は、柱と同じ色の素材で出来た、つるんとした仮面をしていた。  ぐたりと力の抜けた体勢で、濡れて垂れ下がった髪の隙間から、仮面に覆われているはずの両目でこちらを見ている。その視線からは呪いの様な、強く禍々しい何かを感じた。 「――違う? 違う? 違う? じゃあ――」  "夢"という箱庭が震えた。漏れ出した呪詛は新たな力の奔流となって、景色を塗り潰した。"嘲り"が全てを埋め尽くすと、濃霧の色が青色に変わっていく。  それはいつか見た、深海の色彩だ。 「ごめんなさい」  そうして夢は終わり、白い天井が黒鉄を迎え入れた。上から下までびっしょりと濡れていたのは、寝汗かもしくは何処かで水に浸かったのか、区別がつかなかった。  木の枝の表皮に小刀を当てる。余計な部分を削ぎ落し、徐々に先端を尖らせる。握りの部分にヤスリをかけて、掌の形に合わせて整える。こんなものかと光にかざすと、薄らと緑色の光を発しているのが見えた。  麻布につけた漆を表面に塗ると、乾燥用に購入した簀の子の上に乗せて一息を吐く。 「明日、か」  夜が明ける。朝日が昇る。
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