0人が本棚に入れています
本棚に追加
「(動かしておくか)」
ペンダントを掲げる。念じるのは、空気を押し上げるイメージ。
「……浮かべっ」
キィと微音を鳴らし、ベッドは黒鉄を乗せたまま床から浮いた。更に空気の球を転がすイメージを浮かべると、ベッドは少しずつ窓から離れた場所へと移動する。
「っは……」
床を傷付けないように降ろし、ペンダントから手を離した。汗が一筋、頬を流れる。黒鉄は指でそれを払うと、疲れた様子でベッドから降りる。正直このまま眠ってしまいたいが、汗をかいたままでは気持ちが悪い。
蛇口をひねる。ボウルに水を溜めると、頭から突っ込んで息を止めた。こぽ、と口の端から気泡が漏れる。閉じた目蓋の裏側では、寸前の残光が薄らと円を描いていた。
顔を上げると、鏡が目に入る。随分疲れた顔をしているな、と自嘲した。
「――趣味が悪いな」
黒鉄の背後。男が、短い廊下の壁に寄りかかっていた。
男と言っても、服装からそう呼んでいるだけだ。そもそも妖精に性別は無い。王も女王も、会話した感覚や見た目から人間がそう呼んでいるだけだ。
その妖精はスーツを着ていた。シルクハットに黒い蝶ネクタイで、マジシャンのようにも見える。全身黒づくめで、マネキンのように真っ白な肌をより際立たせている。顔と呼べるパーツは存在せず、鼻の形状が滑らかな曲線のみで構成されていた。
「そう言うなよ少年。この居心地の悪い部屋に忍び込むのだって一苦労なんだ」
妖精は吐き捨てるように言う。ゆらりと身体を壁から離し、腰を折り曲げて屈むようにして立ち上がった。黒鉄を見下ろすように影で覆うと、身の丈ほどもある右腕を向ける。
「鉄柵やら、ここの術師の障壁やら、随分と厳重じゃないか」
「お前みたいなのがいるからだろう。誘拐犯め」
今度は愉快そうにくつくつと笑う。妖精のくせに感情豊かなことだ。
「格調高く"神隠し"と言ってくれ。――ああ、そんな怖い顔をするな。怖くて怖くて話も出来ない」
「今度ふざけたことを抜かしたら、その腕、もぎ取ってやる」
妖精は笑う。その反応を待っていたと言わんばかりに、高らかに声を上げる。
黒鉄は大きく一歩踏み出す。横薙ぎに腕を振るい、妖精の腕に爪先を掠めた。そうして起こるのは、閃光。空気の弾ける音がして、肉を焼き、断つ。
妖精は動じない。嘲りの声を上げながら、風の中に溶け消えた。
最初のコメントを投稿しよう!