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Ⅰ.闇との邂逅
1992年の冬のある日、新宿にある、とある心療内科の待合室で自分の名前が呼ばれるのを待っていると、隣に座った若い女性が話しかけてきた。
「スイ マセン。」
妙に抑揚のない声で、はじめは機械の音かと思った。数瞬の後に、隣の女性が話しかけているのだと理解した私は、
「どうされましたか?」
と返答した。
「ヲ水ヲ 一口 イタ ダ ケマセン カ ヒドク 口 ガ 渇イ テ」
彼女は、妙に一本調子な口調で言った。次の瞬間、私は彼女の異様ないでたちに気がついた。頭に載せている黒いカチューシャのようなもの、首筋から胸元までを覆った細かい白の刺繍、黒地にビロードの糸で蝶や植物の刺繍を施した、極端な A ラインのワンピース、編み上げの黒いロングブーツ。私は、応対のリズムを掴めないまま、若干上ずった声で答えた。
「え、ええ、構いませんよ。何かコップになるものは・・・」
当然、その様なものは持ち合わせていなかった。
「巧ク 飲ミマ スノデ 大丈夫 デ ス」
機械のような口調でそう言った彼女の顔に目をやると、私は思わず顔をしかめた(と思う)。トーンの暗いアイシャドーにパープルがかった色のリップ。肌は透き通る様に白く、控えめなファンデーションがそれを強調していた。瞳はうつろに暗く、明らかに健常者の目ではなかった。私はいたわる調子で
「どうぞ、お飲みください。大丈夫ですか。」
と言って、手に持っていた水のペットボトルを差し出した。彼女は一礼してそれを受け取ると、元気なくそれを飲んだ。いや、飲んだというよりは、むしろチロリと舐めたという方が正確であったかもしれない。そんな生気の無い飲みっぷりだった。
2週間後に、同じ心療内科の待合室で彼女と再び顔を合わせた。とにかく、生気というものがまるでない。目鼻立ちの整った美貌とあいまって、まるでダークなフランス人形?の様な佇まいであった。
「先日ハ アリガト ウ ゴ ザイマ シタ」
抑揚のないロボットの様な口調で、彼女は礼を述べた。
「いや、どうも。その後お加減はいかがですか?」
私は、できる限り丁寧に聞いた。一方で、どうせ見知らぬ病人同士の会話など、病気に関する事くらいのものだから、適当にあしらっておこうと思った。
「私 ウツ病ナノ デス 今ノ薬ガ チョット 重スギ テ 辛イデス」
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