第1章

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「わたしも好きなアーティストさんはいるけれど、ね」  どうして、この人の曲ばかり、よく聴いているのか。  不思議そうな彼女の顔に、言うべきか迷う。  理由は、きちんと……それが、きちんとしているのかは、わからないけれど。  あるには、あるのだ。 「ちょっと、不安になるのよね」 「不安?」  眼を伏せて、片手をデスクにおきながら、彼女は残った指先で頬をかく。  言いづらそうな案件や、困った時に、彼女はそんな仕草をするのだ。 「聴いている時の顔が、不安になっちゃって」 「それは、気になるかも」  言われて初めて、そんなに変な顔をしていたのかと恥ずかしくなる。 「わたし、どんな顔で、この人の曲を聴いているの」  興味はあった。  わたしが音楽を聴く時間は、限られたものだ。  急いでいる時や移動中などは聴かず、ゆっくり落ち着いた時間のなかで、そのアーティストの作る世界観に浸るのが好きだったからだ。  ――それは、彼に出会った時から、ずっと変わらなかった。  ぼんやりとそんなことを想いながら、彼女の言葉を待つ。 「……その曲を聴いている時、なんていうのかな」  トーンを落とした声で、慎重に語る彼女。  一拍おいてからつむがれた言葉に、わたしは、想わず身を硬くしてしまった。  ――まるで、恋人の言葉を待ってるような、そんな雰囲気があってさ。 「……」 「それだけ、ずいぶん入れこんでるよねってことなんだけれど」  謝罪するような彼女の言葉に、わたしは頭をふった。 「確かに、ずっと好きだけれど。そっか、そんな顔……してたんだね」 「いやいや、変ってわけじゃないんだけど、ね」  携帯のディスプレイに、最新のアルバムの日付が映る。  それはもう、二年前のもの。  芸能界でいえば、そんな空白期間があれば、風化していてもおかしくない。 「ごめんね。ただ、またいろいろとお出かけしたいなって。いいでしょ?」  彼女からすれば、このアーティストばかり聴いている私が、本当は誘われるのが嫌なんじゃないかって想っているのかもしれない。  そんなことはない。他の人やバンドの曲も、新鮮で刺激的で、嫌なものじゃない。  実際、彼の曲は聴きすぎている。  歌詞のフレーズから、発声タイミング、音と合わせるクセなんかも、おそらく暗唱できるくらい。  飽きていない、というのは嘘になる。
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