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そして、その大聖将軍寺。
その国道25号線沿いに、その、仏教をめぐる蘇我物部戦争で亡くなられた物部軍の総大将の物部守屋のお墓があります。
現在のお墓は、悪戯されないように、鉄の門扉で閉ざされています。
大聖将軍寺の人に聞いたら、そのお墓は、神社庁が管理している、由緒正しきお墓だそうです。
その、物部守屋様。
天皇家の軍事、警察を司る一族の長でした。
仏教を取り入れる蘇我氏一族と、真っ向から対立します。
しかし。
古代史で有名な、黒岩重悟先生。
残念ながら、お亡くなりになられましたが、この黒岩先生が書かれた物部守屋様を主人公にした、『磐船の光芒』では、物部守屋様は仏教も取り入れ、古代の日本の神々との融合を目指している物部守屋像を書いておられます。
なぜなら、物部守屋様の地元の渋川に、仏教のお寺を建てているからです。
これを知った、黒岩先生は、多分、物部守屋様の本心は、新しき事を取り入れ、古き事との融合を目指しているのではないのか、と。
物部氏は、この時代、天皇家から、膨大な数の利権を手にしていました。
中国地方や、九州地方、西日本にかなりの数の物部一族がありました。
物部守屋様は、その一族をまとめる長です。
一族から、仏教を取り入れるかどうかでかなり揉めたようです。
なぜなら、仏教を認めれば、蘇我氏が物部氏の利権を脅かすかもしれないからです。
それも、そのはず。
蘇我氏の一族の長、蘇我馬子は、それもねらいで仏教を取り入れようとしていました。
だから、物部一族は、仏教を取り入れるのを反対したわけです。
まあ、言うなれば、蘇我氏と物部氏の権力争いだったわけですね。
結局、物部守屋様は、蘇我馬子に破れました。
物部一族の人間は、半数が野に消え、半数が奴隷となりました。
これは、この時代の当然の事だったみたいです。
この戦争は、歴史のどこにでもある、権力争いです。
仏教を利用した、貴族たちの・・・。
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