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そして、他の大名家に仕官しようとしたのですが、長政、その度に、横やりをいれて、妨害し、かなりの貧乏生活を強いられることとなりました。
て、大坂の陣。
豊臣軍の大将として、迎え入れられる事に相成ったわけです。
そして、その相棒(?)の大将として。
木村重成が、鴫野今福方面の大将として任せれていたのです。
合戦の内容はこう。
徳川軍の上杉景勝、佐竹義宣軍が、鴫野今福の砦を急襲しました。
木村重成、それを迎え撃ちます。
乱戦の中、重成様、落馬して、敵兵に取り囲まれそうになりますが、この時、後藤又兵衛が、駆けつけてきて、危うく難を逃れます。
その時。
「助太刀、感謝する。しかし、御老将は後ろに控えて、若手に功を譲るのが情けでござろう!後ろに控えていて頂きたい!」
との、事を、言ったとか、言わなかったとか。
後藤又兵衛、この言を気に入り。
「わかった。なら、ご助成つかまつり、先にまいられませい」
と、自分は、重成軍の支援として、共に戦ったとの伝えが残ってます。
そして。
大坂冬の陣で、徳川軍との講和がなりました。
当然、文書の交換。
誓紙をもらいに行かなければなりません。
その時の使者が、重成様だったのです。
そして、その誓紙をもらう場所での時。
誓紙の徳川家康の血判が薄かったのを、重成様、見つけます。
「判が薄うござる!」
居並ぶ、徳川軍家臣の面々で、徳川家康の非を堂々と指摘します。
徳川家康、之に敬服し、自分の非を認めて、ちゃんとした血判を印す事になりました。
この話が双方話題になり、木村重成の名が、大坂の陣で響き渡る事になりました。
ちなみに。
重成様、かなりのイケメンだったようで、大坂城の女性たちの人気者だったそうです。
眉目秀麗で、名将。
とーぜん、有名になってしかるべし。
まあ、大坂の陣の前から、重成様は、女性に人気があったそうです。
そして、この重成様と一緒に夫婦になる女性が、青柳(あおやぎ)という女性なのです、
この、女性。
馬淵の一族の娘、との伝えがあります。
実家は、滋賀県、近江八幡市の馬淵町の辺だそうです。
場所は。8号線沿いの馬淵の交差点の辺りみたいです。
筆者は、現地で確認してきました。
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