河内の歴史とか

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北条氏政が、真田丸で、抵抗しました。 そして、その北条氏政も、とうとう、降参します。 そして、その息子の北条氏直。 高野山に、追放されます。 だけど、太閤秀吉。 北条氏直を赦します。 しかも、一万石の領地もくれました。 そして、その領地が、河内の狭山という場所。 狭山とは、河内の南部に位置します。 溜め池百選に選ばれた、狭山池がある、大阪狭山市という場所です。 そこに、北条氏は幕末まで、藩を存続させる事になります。 その狭山池。 なんと、住之江競艇場ができるまで、競艇が行われていた場所でもあります。 まあ、それはともかく。 その狭山藩。 豊臣氏が滅んでも、徳川が滅んでも、勝ち組の方にいたそうです。 最後の藩主様は、子爵まで上り詰め、明治天皇の侍従だった話。 しかも、一万石の領地も殆ど、減ることなく存続したそうです。 だけど、最後は借金まみれで、いち早く版籍奉還をして、難を逃れたそうです。 流石にしぶといですね。北条早雲の血筋は。 戦国大名の先駈けです。お見事。 だけど、初代藩主様は、北条氏直ではなく、北条氏規さんの息子の、北条氏信さんです。 この人、関ヶ原で、徳川家康に着き、勝ち組にいました。 そして、城は持たず、大阪市の中央区の久宝寺の場所に、屋敷を持ち、政務を取り仕切ったそうです。 陣屋(城みたいな政務を取り仕切る場所)を作ったのは、なんと、1616年だそうです。 狭山池の近くに陣屋作りました。 細く長くの河内の狭山藩。 似たような藩が、となりの奈良県にあります。 賤ヶ岳七本槍の一人。 平野長泰さんです。 しかも、5千石。 小説にも、なりました。 司馬遼太郎先生の『権平五千石』という作品。 よろしければ、読んでみてください。
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