紫陽花は色褪せない

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上等なスーツを濡らしながら傘もささずに、女は歩いている。 上品なモカの色使いのパンプスが水をはねるのも構わず歩くその優雅な姿に、道行く男達は振り返る。 水も滴る、とはよく言ったもので、女の姿はまるで紫陽花が水をはじいているようにキラキラと輝いている。 にわか雨に傘を持たずに、浮かぬ顔をした人混みの中で、その女はかすかに微笑んでいるようでもあり、その様子がいっそう色っぽくて男心をくすぐるようだ。 女は雨が好きだ。 彼女のすべての罪が洗い流されるような気がしてならないからである。 「大丈夫ですか?急に土砂降りになりましたね。」 へつらいながらタオルを手渡す男からそれを受け取ると、ありがとうとその女は長いウエーブのかかった、美しい栗色の髪の毛を拭いた。少し前まで、女の癖にという暴言を平然と吐いていた時代錯誤の中年男である。 彼女が出世してチームのリーダーになった時には、どんな枕営業をしたんだという言葉も、他のスタッフは妬みだと理解していた。彼女は実力で成果を出したことは、誰もが認めるところである。 ミストレス。まさに、彼女のためにある言葉だ。彼女はチームのスタッフからは絶大な信頼を得ていた。 この無能なオッサンを除いては。    スーツを白衣に着替えると、彼女はその美しい髪を後ろに一つに束ね、手にぴったりと手袋をはめると、冷蔵庫からシャーレを取り出し、顕微鏡の前に座った。彼女は不滅細胞の研究者であり、人間の不老不死についてのプロジェクトのチームリーダー、滝川恵似子。国の息のかかった研究所で、まだプロジェクトは極秘であるが、いずれ、成功すれば、世界的科学雑誌に発表する予定である。  並み居る研究員の中でも、恵似子の実験のセンスは群を抜いていて、しかも丹念な研究の資料に、他の研究員が舌を巻くほどであり、地道で緻密な実験の積み重ねが今の彼女の地位を築いたのである。
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