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私の大地
「黙れ、お前がこうやっていつも俺を怒らせる」
分厚い電話帳が飛んでくる。
その瞬間、かろうじて一歩足を引き、体を後ろにずらす。黄色い物体は、凄い勢いで私の鼻先をかすめていった。バンッとクリーム色の壁に当たり、ドサッと床に落ちる。
2メートルほどの距離をあけキッチン側に仁王立ちしている男は、鬼のような顔でこちらを睨んでいる。どす黒い怒りのオーラが、全身から立ち上っている。身長185cm、昔ボクシングをやっていただけあり、胸筋と上腕二頭筋が発達している。今でも日常的なトレーニングを欠かさない。
そんな男が、全力で物を投げた。それも私に向かって。
コノ男ハ、誰ダ。
全く知らない男と向かい合っているような気がしてくる。
密室での出来事に、私はパニックに陥る。激昂した彼がただただ恐ろしく、目の前が真っ暗になり、体が動かなかったあの日。
私達の間に諍いが増えたのは、結婚してしばらくたってからだった。
数々の言い争いの原因は、ほとんど思い出せない。言われることがあまりにナンセンスなのと、その数の多さに、いちいち覚えていられなかった。けれども、その時々に感じた恐怖は、全て覚えている。毒々しい恐怖は、その度に頭と心と体の深いところに刻まれ、確実に私を蝕んでいった。
始めは口げんかが多かった。口では勝てない、と悟った口下手な男は、次第に、私を脅し、ののしり、卑下し、無視するようになった。
「お前さえ何も言わなきゃ喧嘩になんかならないのに」
「俺の一日を台無しにしないでくれよ」
「俺じゃない。問題があるのはお前の方だ」
「さっさとどこへでも出ていけ」
「お前が俺の言う通りにしないから喧嘩になるんだ。お前はいつも俺の気持ちを傷つける」
「女なんて、幾らだっている。お前じゃなくたっていいんだ」
「お前は最低な人間だ」
売られた喧嘩をこちらが買えば、Fワード、Sワード、Bワードを乱発した。
日本語にもクソ、馬鹿、ざけんじゃねぇ、殺すぞ、といった汚い言葉があるが、英語圏の公共の場でこれらを口にすれば、子供であれば校長室行き、大人であれば人格を疑われるといった言葉が、いわゆるFワード、Sワード、Bワードと呼ばれるものである。
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