色を失う

11/11
前へ
/11ページ
次へ
 そしてこれは、後から知ったことです。  お隣の佑島さんは、もう二年も前から夫婦仲が破綻していたそうです。世間体を何より重んじる彼らは、お互いを罵るときも声を荒げず、静かに静かに罵詈雑言の応酬をしていたそうです。  その静謐さたるや、あの薄い壁を通さぬほどの。  『 お前なんかと結婚するんじゃなかった』  『この結婚は失敗だったわ』  『早くこの家から出ていけ』  『あなたこそ、消えろ』  ーーそんな会話が、日常的だったそうです。  旦那さんの方が先に限界を迎え、その朝、とうとう奥さんを包丁で刺しました。  彼は手を洗うのも失念し、自宅から慌てて逃走しようとした、その矢先に私とぶつかったのです。  血まみれの手で、彼は私の肩を掴んだのです。  色を失った私の目は、佑島さんの手が真っ赤なことを、知覚できなかったのです。  目を患う前から、色眼鏡で他者を見ていた私は、見た目だけで、表面的なものだけで他者を「こう」だと思い込んでいました。  そのことを思い知りました。ーーというのはもちろん、後日になってから至った考えでしかなく。  その時は奥さんのものであろう乾きかけた血をまじろぎもせずに見つめながら、  私はただ、色を失っていました。  了
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加