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「新刊は出せないって、どういうことですか!」  私の大きな声が狭いオフィスに轟いて、向かい合って机を寄せている同僚数名が何事かと顔を上げる。 「原稿も順調に進んでたし、先生も絶好調だって仰ってたじゃないですか! どうして、急にそんな……」  憧れの出版社に勤めて七年。  社会人の酸いも甘いもそれなりには経験してきた。  我がクローバー出版が、業界でもミジンコ的な零細企業であるために涙を飲んだことは数知れず。  名の知れた大手他社に仕事を横取りされたことは一度や二度の話ではない。  それでもくじけず、コツコツと真面目にやってきて、ようやく夢だった文芸書の出版チャンスを掴んだと思っていたのに。 「来週には装丁の打ち合わせも入ってるんです。先生たっての希望でお願いしたデザイナーさんですよ? わざわざ先生のご本のために帰国して頂くんです! お願いですから考え直して下さい。今さらキャンセルなんかできません! だって……」  どんな思いでお願いしたとっているの。  デザイナーに仕事を受けてもらうまでの大変だった日々が頭をよぎる。  それは世界的にも注目を集めている日本人画家で、もともと装丁デザインが本業ではない上に住居がパリということもあって交渉は難航した。  例によって、出版元、つまり我がクローバー出版が名の知れない三流だからというのが受け渋られる一番の理由だったことは想像に難くない。  カバーのデザインは絶対に彼の絵でないと嫌だと言い張った作家、すなわち今この電話の相手である若槻直子は若手実力派と言われる人気作家だ。  その彼女の新刊とあっては、デザイナーにしてもけして受けて損な仕事ではなかったはずだが、それを売り出す出版社が無名では発行部数などたかが知れている。  加えて大手のように十分なギャラも用意できないし、このご時世それすら未払いのまま倒産してしまう可能性だってあるのだ。  それでも先日、執念とも言える熱意を認められ、ようやくOKをもらえて、直子もいたく喜んでいたのに。
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