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「いい話を書いてやって下さいね」
作家に対して失礼な言い草ではあったが、もちろんよ、と即答する直子に安堵する。
俺が作った今回の本より更に上をいく作品が望ましい。
梓の喜ぶ顔が目に浮かぶ。
「でもね、ラストがまだ決まってないの」
さらに直子は、コーヒーを飲みたいと洗い物をしている俺に要求してきて、しかし言われて早速手を拭いている俺はまるでお手伝いさんだ。
ユキはバイトらしい。
「とりあえずアンタに預けるわ。一度読んでみてよ」
「僕が? 担当じゃない原稿を読むのはちょっと……。梓もいい気はしないでしょうし」
「まぁ、そう言わずに」
それまでとは打って変わって、直子は穏やかな調子でそう言った。
プリントアウトした原稿をクリップで綴じている。
「ねぇ、チョコレートを作るときに、一度溶かすの知ってる?」
「ええ。たしかテンパリングでしたっけ?」
「男のくせに、そんな専門用語知ってんじゃないわよ」と直子が嫌な顔をするが、聞いてきたのは自分だ。
俺はこれみよがしに肩で大きく溜息をつき、今はダイニングテーブルに席を変えた直子の前にコーヒーを置いた。
自分も勧められてはいないが勝手にカップを持って、差し向かいに腰を下ろす。
「ほら、よくさあ、割れたお皿はボンドでくっつけてもヒビは消えない、イコール完全に元の形に戻ることはないとかって例えるじゃない?」
「ヨリを戻したい同僚がそう言って悩んでましたよ」
「それはそれで間違いではないと思うの。でもね」
直子はそこで一度言葉を切り、
「一度砕いて粉々になったものを溶かして、再び完成形になるものもあるのよ。さっきそれに気づいたら、今まで書いてたストーリーが急に命を持った」
目の前に原稿が差し出され、俺は冒頭に書かれていたタイトルを読み上げた。
「……チョコレイト・ラブ」
「そう。だから、チョコレイト・ラブ」
直子が大きな瞳を楽しそうに輝かせる。
一応のラストは私の中で決まってるんだけど、と前置いてから、
「ま、とにかく読んでみてよ。男のヘタレっぷりがそれは情けないから」
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