遠い記憶

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「い、意味わかんないし」 奏は零さないようにココアの入っているカップをテーブルの中央に置いてから、蓮登の腕から抜け出した。恥ずかしさで、頬も耳も真っ赤に染まっている。 「そう?」 蓮登は、いたぶるネズミをようやく見つけた飢えた猫にも似た眼差しで奏を見つめている。 口元に隠しきれない笑みさえ浮かべて。 けれどもそれもほんの一瞬。 昔、彼女に注いでいた『先生』の表情に戻る。 優しく穏やかな、人好きのする表情だ。 「意味がわからないのは、奏の方だろ?  そんな時はまず、同僚か上司にでも連絡を取ってみなよ」 「――そっか」 昔からパニックになると思考がぶっ飛んでしまうのは、自分でも自覚している奏の悪い癖だった。 「こっちでも調べてあげるから。  なんて会社? 住所と代表者名くらいわかるよね」 「う、うん」 促された奏は再びテーブルについて、差し出された万年筆を使い聞かれたことを書き出していく。 まるで、昔に戻ったみたい、とちらりと思った。 「はい、どうぞ。  そして、ありがとう。私、落ち着いたからもう帰るね」 ぴくりと、蓮登の形よく整えられた眉が動く。 「次の仕事が決まるまでは、ここに居な。  空いてる部屋もたくさんある」 「ダメだよ、こんなところ。  住めるわけないでしょ?」 「そう? 場所も景観も申し分ないと思うけどな。  夜景も綺麗だし、使い勝手の良い調度品を揃えているし――」 どこに不満があるのか皆目見当もつかない、と、蓮登は不思議そうに首を傾げる。 「そういう意味じゃないって。  私しばらく無収入だから――ううん、仮に今まで通りの収入があったとしても、ここの家賃なんて払えるわけないし、だいたい蓮登さんは売れっ子ホストなんだよね。  女の子と一緒に暮らしてるなんてばれたら仕事に差し障るんじゃないの?」 そもそも、好きでもない女の子と一緒に暮らそうって言い出すなんて本当にどうかしている。 しかも、どうやら私は今でも蓮登のことが大好きだって自覚してしまった。 その声も、指先も、何もかも。視線が絡まっただけで、脳内麻薬が分泌されてくらくらしてしまうのよ。 そんな人に報われない想いを抱えたまま一緒に暮らすなんて、無理に決まってるでしょ。
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